終わりのあとの終わらない夢


「……ぶい、だぶりゅ、えっくす、わい、ぜっと」
 低くしかも上機嫌に口ずさみながら、少女は画用紙をカラフルな線で埋めていく。
 エックスというよりはどうみてもバツだ、とか、ブイとダブリュを続けて書くのは如何なものか、とか、揚げ足を取るような考えが浮かびもしたが、口には出さない。
 なんとなれば、少女はまだほんの五つになったばかりなのだ。大人げってものを、いくら彼でも多少は持ち合わせている。
「えーい、びい、しー……」
 ……また書くのか。一体何がそんなに面白いんだ。
 覚えたばかりのアルファベットが愛しくて堪らないらしい彼女を見ながら、彼は心の底から思った。
 自分にも、こんな時期があったというのだろうか。……あったんだろうなぁ。悪い冗談のようだが。
 無心に画用紙を見つめる少女の瞳は真ん丸く、どこか仔犬を思わせる。ふっくりした頬は母親ゆずりの色白で、夢中になるほど赤みを増すのが可愛らしい。その頬を流れ落ちる金色の髪も、母親似。
 全く、父親に似ないで良かったよな。女の子だもんな。せっかく綺麗な母親がいるんだから、そっちに似た方が幸せってもんだよな。
「何にやにやしてんのさ、加賀。気色悪い」
 本気で怪訝そうな声で言われて振り返る。
「失敬な。微笑ましいなーって眺めてるだけだろうが」
「微笑ましい、ってカオじゃなかったよ。……なんか妙なコト考えてたんだろ?」
 未だに少年のような面差しを生意気に歪めて、フィルが疑いの視線を送ってくる。
「んまぁ、なんて信用がないんでしょっ。てかお前、ナマイキ」
「信用がないのは日頃の行いの所為だと、いい加減自覚してもらいたいね。だいたい、」
 呆れ顔で少女の様子を見やって、続ける。
「一緒に遊んでやってよ、って頼んだのに、結局ジューンひとりで遊んでるじゃないか」
「いーじゃんか本人が楽しいんなら」
「……そうだけど。もうちょっと、他人と関って欲しいんだよ、親としてはね」
「別に無理するこたーないと思うけどな」
 そういう自分だって、なかなか陰にこもりがちな少年時代だったくせに。とからかいかけて、あ、俺もか、と苦笑する。オトナなんてのは、自分が子供だった頃のことを、あっさり忘れてしまう生き物なのだ。
「ま、パパがそーいうなら、少しはお邪魔しましょーかね」
 悪戯っぽく笑うと、一心不乱に字を書いている少女の脇にしゃがみ込んだ。
 見ている端から画用紙を埋め尽くしていく、カラフルな文字。追いかけるようにクレヨンを取り、少女と一緒に文字を撒き散らし始める。
「えーい、びい、しー……」
「あるふぁ、ぶらぼ、ちゃーりー……」
 呆れた。フォネティック・コードなんか歌ってどうするんだよ。
 小さく息を吐く父親をよそに、加賀は楽しげに少女の旋律に合わせて歌う。やがて少女が興味を持ち、口真似をしながら歌い始める。
「しえら、たんご、ゆにふぉーむ……」
 シエラで山を、タンゴで踊る人を、ユニフォームでブレザーを書き殴り、少女の賞賛の眼差しを浴びて満足そうだ。
「うぃすきー、やんきー、えくすれーい……と、」
 飾り文字やサイン風、小奇麗なブロック体。器用に様々な色を置き、ゆっくり旋律を追いながら、加賀は最後の文字を書く。
「で、ずーるー、と。……おしまい」
「おしまいじゃないよ!」
 クレヨンを手放そうとしたその手を、少女が力強く掴んだ。
「ぜっとまでいったら、もういっかいなの!」
「えー。もう一回?」
「そう! もういっかい!」
 しょーがねーなぁ、と例のにやにや笑いを浮かべて、あるふぁ、ぶらぼ……と口ずさみ始める。すぐに少女がついていく。
 あー、またまた書くんだな。一体何がそんなに面白いのか、やっぱり理解は出来ないけれど。
 終わったと思っても、また始まるんだな。好きだったら。楽しかったら。
「ほてる、いんでぃあ、じゅーりえっと」
「……ねぇ、加賀」
「きろ、りま、まいく、のーべんば……」
 歌っているから返事はしないが、ん?と目線だけで問い返す。
「加賀のところはどうなのさ。……そろそろ、話、出てないの?」
 おや、ナマイキ。酒もないのに、そんな話題を持ち出すとは。
「おすかー、ぱーぱ、けべっく、ろめお、」
 歌の合い間に、べ、と舌を突き出してみせる。年下の父親は肩を竦めた。
「しえら、たんご、ゆにふぉーむ……」
「いい加減覚悟決めればいいのに。これ以上待たせてどうするのさ」
 そ知らぬ顔で歌い続ける。
「うぃすきー、やんきー、えくすれーい、」
「で、ずーるー!」
「そーだそーだ、よく覚えたなぁジューン♪ えらいぞー♪」
 誇らしげな少女の頭を盛大に撫でながら、加賀は顔を上げた。相変わらず、不届きなにやにや笑いを浮かべて。
「待ってなんかねぇよ、向こうもさ」
「それは、加賀がいつまでも待たせるから」
「違うんだなぁ。 ――ねーんだよ、覚悟なんてのも、これ以上もこれ以下も。んな必要、ねーの」
「必要?」
 少女に微笑みかけ、クレヨンを箱に戻して、立ち上がる。
「終わらねぇからさ」
「えーいは、あるふぁ、びーいが、ぶらぼ……」
 今度は自作の歌を歌いだした少女の、細く澄んだ声が空気を満たす。
「……は?」
「終わらねぇんだよ。……どこまで行っても、もっと先が、見たくなる」
 ゼットまで行ったら、もう一回。そう言って次をせがむ少女と、何も違わない。
 想って、願って、焦れて、焦がれて、求めて、求めて、手に入れても。
 ひとつ叶うたびに、新しい夢を見る。彼女の中に。彼女そのものに。
 ――彼女は、終わらない夢だから。
「……て、コト。あのひとも、俺も」
 だから彼らに、完結はない。世間で言うところの「ゴールイン」も、ありえない。
 そういうことなのだ、と、目だけで語って笑ってみせた。
「……要するに、」
 溜め息混じりの声が零れる。
「よくばりなんだね、ふたりとも」
 父親業が板についてきた、生意気な年下の友人の、呆れ声の台詞に。
 よく言われます、とおどけて答えて、加賀はいししと楽しげに笑った。

[09年7月]