長い、間違い 01


 別に、特別なことがあった訳じゃない。予定がなくて天気のいい日に、当たり前のように目が覚めた、というだけだ。
 ――したがって、気楽この上なし。海沿いの道は楽しい。潮の香りと陽射しの匂いを含んだ風で、身体ごと漂白されていくような気がする。 海を眺められるように設えられた小さなスペースが目に入って、取り敢えずそこに愛車を止まらせた。 ぼちぼち煙草も欲しくなってきたし、大体、11月の海風は、眩しい陽射しとは裏腹に冷たい。
「……そろそろ、時期外れかねェ」
 呟く。正午前の海は眩しくて、まだ冬というには早すぎる風情ではあるが。それでも。これからの季節は確実に、ライダーには優しくない。 「愛車」をいつごろ車に切り替えようかと考えながら、若干の疲労を感じている身体に、ニコチン入りの煙を送り込む。
 ――と、腰に馴染んだ振動を感じた。携帯電話への着信だ。誰からだろう、などと考えることもなく、反射的に耳に当てる。
「ほい……」
「加賀くん?」
 名乗る隙さえ与えずに、馴染んだ響きが耳朶を打つ。
「……きょーこさん? 何だよ、突然」
「何だよとはご挨拶ね。こっちは朝から何度も掛けてるのよ、貴方が出ないだけで」
 相変わらず、至極優雅な上から目線だ。腹が立つと言うよりは寧ろ感心するような気持ちで、加賀は電話を持ち直した。
「あー、そりゃすまんこって。走ってたから気付かなかったんだわ。で? なにか?」
「今夜空いてるわね? 河口湖に、19時までに来て頂戴」
 空いてるわね、って。……なんつー言い草だ。思わず電話を離して、まじまじと見てしまう。その向こうに彼女の顔が見えるみたいにして。
「そりゃまた、イキナリ……」
「今! 伝えたんだから、まさか遅刻なんてみっともない真似はしやしないでしょうね。 あ、あと、それなりの格好をしてきて頂戴、ドレスコードに引っ掛かって食べ損ねるなんて羽目になるのは御免だわ」
「っと待てよ今日子サン、俺ゃまだ行くとは一っ言も」
「あら、だって」
 澄ました声が、確信ありげに彼の台詞を遮った。
「断る気なら、とっくに断ってるはずでしょう?」
 ……流石によく、分かってらっしゃる。
 答える代わりに加賀は、ひとつ大きく溜め息を吐いた。


「――ったく、貴方といい新条くんといい……」
 アクセルを踏み込みながら今日子がきゅっと眉をしかめた。
「少しはプロの自覚を持って欲しいもんだわ。サーキット以外でだって、貴方たちの服装、言動、すべてがアオイのイメージに繋がってるんですからね」
「べっつにいーじゃん服装くらい、」
「よくないわよ!」
 言い終わる前にぴしりと言い返されて、加賀は居心地悪そうに助手席のシートで身動ぎした。
「大体貴方なんて、複数年契約のはずでしょう? 毎年あのレセプションに出ることくらい、分かってて当然じゃないの。 只でさえ目立つんだから、注目を浴びた時にどう映るかくらいのこと、」
「あー、はいはいはいはい! もーいーじゃねぇか買ったんだし……」
 ちらりと、後部座席に積まれた紙袋を見やった。中身は新品の略礼服だ。 「それなり」の恰好が出来る用意なんかない、と言ったら、横浜の老舗洋品店に押し込まれて、あれよあれよという間に買わされてしまった。 しかも、今日子のありがたい采配のおかげで、次回振り込まれる加賀の契約金からは、実に十数万円が天引きされることになっている。
 ……そう、天引きである。今日子が服を買ったのではない、加賀自身が買ったのだ。貰える筈の給与の一部で――つまり、自分の金で。泣きたい。
「お金の心配はしなくていいわよ、なーんて言うから、てーっきり買ってくれるもんだと思ってたのにさぁ……」
「あら、実際、手持ちの心配はしなくてよかったでしょう?」
 ぼやいたところで涼しい顔だ。
「まあ、これでもう毎年貸衣装なんていういじましい真似はしなくて済む訳ね。本当はフルオーダーにしたかったけど……」
 フルオーダーで設えられた略礼服の値段を想像して、思わず加賀は身震いした。あー良かった。時間がなくて、本当に良かった。
「折角なんだから、ちゃんと手入れして、びしっと着て頂戴よ?」
「へーいへい」
 実際、勝とうが負けようが、自分が注目の的になることは、加賀自身ちゃんと自覚している。 していて、それでも別にどうでも良かったのだが、「AOI-ZIPの」ブリード加賀、と枕詞を付けて呼ばれるようになった今では、 以前より多少は気を遣わなくてはならないのも事実として分かっていた。
 やっぱ、柄じゃねーなぁ。何よりも身軽でありたいはずの自分が、こんな世界的大企業の看板を背負っている現実を思って、苦笑する。
(――それを思えば、)
 ちらりと、運転席の彼女を見やる。
(よくやってるってコトかもな、女王様は)
 自分とほとんど違わない年齢で、もうこの大企業のチームの「トップ」なのだ。 会長の孫娘であるとか、もともと今日子のプライベートチームのようなもんだったはずだとか、色々差っ引いて考えてみても、積み重なればかなりの苦労があったろう。
 彼女との付き合いも長くなり、当初の「強気で高慢で鼻持ちならない女」という印象はなくなったが、それでも彼女が人前で隙を見せるところは、数えるくらいしか見たことがない。 いつも高そうなスーツを着て、かつんと鳴るハイヒールを履いて、埃っぽいサーキットでも、蒸し暑いガレージでも、化粧ひとつ崩さないまま君臨する、絶対無敵の女王様。
「……なぁ、きょーこさん」
 ――と考えながら不意に、加賀は抱えていた疑問を口に出してみる気になった。
「言うヒマなかったんだけどさ、今日のそのカッコ……」
「が、どうかして?」
 溜め息混じりの、皮肉な口調。加賀は眉を寄せる。
「……自覚あるんだな、その反応だと。やっぱそれ……」
「似合わないでしょ」
 く、と小さく笑って彼女は言った。自嘲のようにも、本当に可笑しがっているようにも聞こえる短い笑み。
「作戦本部が変更になったのよ。これは新本部長の趣味」
「……『作戦本部』?」
 聞き返しながら、改めて「今日のそのカッコ」を眺めてみる。 唐突な電話に呼び出されてから暫く、彼女のオフィスの扉を開けたのは、確か正午を少し過ぎたくらいだった。 真昼の眩しい光と、彼女のその服装に、一瞬、フロアを間違えたのかと思ったことを思い出す。
 たっぷりとドレープを取った象牙色のブラウス、淡い薔薇色のフレアスカート。淡く甘く、優しい色合いで構成された薄化粧。 いつもなら下ろしている髪は柔らかく編み上げられていて、軽く羽織ったニットのカーディガンに、大輪の花のコサージュが飾られていて。
「少しでも大人しく、優しく、可愛らしく見せよう、って訳ね。今更取り繕ったってムダだって、言ったのだけれど」
 苦々しい口調でぴんときた。うわあ、またか。こちらまで苦いものを飲まされたような気分になるじゃあないか。
「……まーた、見合いか」
「懲りないでしょ、我が親ながら」
 苦笑を収めて、溜め息。
 今日子を早く「片付けて」しまおう、というのは別に、今に始まったことではない。 強引に見合いをセッティングされ、不機嫌に出掛けて行った今日子が不機嫌なまま戻り、その度に新条と顔を見合わせて苦笑したのは、 ここ数年で20回は下らないはずだ。アルザードでの破綻以来、社内も後始末でばたばたしていてそれどころではなかったはずなのだが――
「ったって今日子サン、言ってただろ。もうオトーサマの言う通りにはなりません、って……」
「そうよ。その通りよ」
 さっきよりももっと苦みを増した溜め息が零れた。 祖父と父との判断が大失敗だったのを逆手にとって、御覧なさい、だから自分で見付けると言ったんです、とぴしゃりと言ってのけていた。 あの勝気なお嬢様と同じ人物だとは思えないほどの深い溜め息。
「……漸くお父さまが黙って下さったと思ったら、なんでか、お母さまが乗り気になっちゃって。 だから言ったでしょう、女の子は誰かを選ぶんじゃなくて、誰かに選んでもらうものですよ――ですって」
「うわ、意外ー。おっどろいたね。女王サマのお母上が、そんな古風な考えをお持ちだとは!」
 思わず天を仰ぐ。なるほど、迸る反骨精神は、そんな母親への反発でもあった訳か。
「娘の私もびっくりよ。連れて来る人来る人、ほんっとにつまらない方ばっかりなんだから。 今日だって、折角のウェスティンのランチコースが台無しだったわ。味が判らなくなるくらい退屈な男!」
 思い出したら腹が立ってきたのか、声に苛々とした響きが混じり始める。敏感にそれを聞き取って、加賀はしぶしぶフォローに入った。
「ま、いーじゃねぇか終わったコトは。義理も果たしたし、夕飯は台無しにならねぇフレンチなんだろ? それにほら、」
 後ろを軽く目線で示して、続ける。
「新しい衣装も山ほど買ったんだし、よ!」
 余程苛々していたのだろう、加賀の礼服を買うついでにと、今日子もかなりの服を買い込んでいた。 何を買ったのかまではよく分からないが、少なくとも今着ているものよりは遥かに、彼女を彼女らしく見せてくれる服だろう。 気に入ったものに着替えて、旨いものを気が済むまで食べれば、それなりに気は晴れるはずだ。
「まあ、そうね」
 漸く苛立ちを薄れさせて彼女が笑う。見慣れない服でも見慣れない化粧でも、変わらぬ彼女らしい表情。
「折角、付き合ってもらうのだし、ね」
 海側へ大きく曲がり込む道の先を見ながら、彼女は笑いを含んで続けた。
「ついでだから、貴方の腕前も披露して欲しいわ、ZIPのドライバーさん?」
 つまり、どっかで運転を代われ、と。
「へーいへい。女王サマの、仰せのままに!」
 きらきらと陽を浴びた海沿いの道を見つめ、加賀はおどけた返事を返してみせた。

→02へ続く



[2014年9月]