長い、間違い 02


 何度も見ているのに、その度に目を瞬いてしまう。トンネルを抜けた瞬間に目の前に広がる眺めには、それだけの魅力があった。 安定して高い透明度を誇る、富士の麓の大きな湖。湖水の煌きを周囲に従わせた富士山の、青い山肌が冷え始めた空気に匂い立つようだ。
「その先を、右へ回り込んでいく方の道へ入って」
 助手席の今日子が片手を挙げて示す。彼女の指定した湖畔のホテルは、名前だけなら加賀でも分かる、高いランクの老舗ホテルだった。 勿論、普段の彼には全く縁のない場所だ。
「加賀くんは、ここは初めてだったかしら」
「そりゃ……あんな高ぇとこ行かねーよ、ひとりじゃ」
「誰かと来たことは?」
「んなヒマあるか!」
 その口調があまりに本気だったからだろう、今日子が面白そうに笑っている。
「そうね、忙しい人よね、貴方は。私に突然呼び出されたりするし」
 まったくだぜ。声に出さずに、けれど大袈裟に顔をしかめて、そう伝えてやる。
「まあ、折角の機会だもの。こういうところを知っておくのも、いいんじゃないかしら?」
「ずいぶん、いいホテルだって聞いた気がするけど、」
 ちらりと小耳に挟んだ評判のあれこれを思い出す。 新しく入った有名レストランが目当てだったのに、部屋があまりにも居心地良すぎて、なかなか外に出られなくなったとかなんとか。
「でも今回は、泊まるわけじゃねーんだよな」
「私は泊まるけどね」
「え」
 思わず、視線を横に走らせる。が、今日子の方は相変わらず、ぼんやりと湖水の輝きを眺めているようだ。
「あ、勿論貴方は帰ってくれていいのよ。私はまだ――まだ、お母さまたちと顔を合わせたりしたら、何を言ってしまうか判らないから。 フランス料理を食べに行く、って書いて来たから、パリまで飛んだと思ってくれてるといいんだけど……って、どうしたの?」
 漸く視線に気付いたのか、今日子が振り向く。
「ちょっと、ちゃんと前見てないと危ないじゃないの」
「だいじょーぶ、ちゃんと見えてるって! ……それより、」
「だから、どうしたのよ」
「……コレ、今日子サンの車だろ。泊まったら明日、コレで帰るんだろ」
「?」
 何を言いたいのか分からなかったらしく、今日子は黙ったまま少し眉を寄せた。その気配に溜め息を吐き、続ける。
「あんたはいいけどさ、俺にどーしろってんだよ。この車は明日要るんだろ。夕食んときゃ酒も呑むだろうし、乗ってくワケにゃ行かねーから、俺は電車で帰れってか?  夜になって、こんなとこから? ……接続終わっちまうんじゃねーの?」
「あら、……ほんと」
 目を瞬いて、口元に手を当てる。
 あら、じゃねーよ全く。心の中だけで毒づく。仕事のことなら隅々まで気の回る女だが、プライベートとなるととんと手回しが悪いのだ。
「そうね、うん、そうよね……電車も、8時台のに乗ったとして……ああ、本当だわ、間に合わなさそう」
 顎に手を当てて考え始める彼女に、加賀は溜め息混じりの提案を投げた。
「しょーがねーなぁ……帰りは俺が運転してやっから、諦めて今夜中に帰ろうぜ。それでいいだろ?」
 今日子のことだ、呑まずにはいられまい。ということは当然、素面のドライバーが必要だ。あーあ、ここまできといて酒ナシかよ、と考えて首を振る。
 が、それに合わせるように、今日子もひとつ首を振って、言った。
「駄目よ。やっぱり、泊まるわ。もう明日、ここで人と会う約束もしてしまったし」
「で、俺はどーなるんだよ?」
「大丈夫よ。確か……」
 記憶を辿るように黙り込み、うん、と小さく頷いて、今日子は言った。
「ええ、そうよ、あの部屋だったら大丈夫。泊まればいいわ。私と一緒に」
 ――加賀は危うく、なんにもないとこでブレーキを踏み込んでしまうところだった。


 広過ぎる窓から、見える空は既に夕暮れの色をしていた。秀麗なシルエットで聳える富士を見ながら、ぼんやりと煙草の煙を吐き出す。 そういえばこの美しい山は、女神の住む山なんだっけ。 かつて聞かされた物語によると、高慢で負けず嫌いで誇り高いここの女神は、彼女のプライドを傷つけた八ヶ岳の頭を、思いっ切り打ち砕いて凹ませてしまったのだという。 日本一ってのも楽じゃない――そんな風に思った幼い日のことを覚えている。
 ま、いつの時代も、女は恐いってこったろーな……。
 しみじみそんなことを考えながら、今度は煙と一緒に溜め息も吐き出す。時計の針は18時40分過ぎ。奥の部屋で着替えている今日子も、もうそろそろ出て来てもよい頃だろう。
 最上階である35階はエグゼクティヴ・フロアで、12個ある部屋はすべてスイートかセミスイートだという話だった。 今日子曰く。スイートというのは居間を備えた続き部屋のことで、ホテル滞在中に来客があったとしても、自室で正式にもてなすことが出来るのだという。 居間には大概、簡易ベッドにもなるソファが設えてあり、大きなベッドと併用すれば、ひとつの部屋に3人も4人も宿泊出来るのだそうだ。
「部屋番号指定で予約してる筈なのよ。以前泊まったときと同じ部屋にしたんだから、大丈夫よ、あの部屋は確かセミスイートだったわ」
 毎度毎度このクラスの部屋に泊まっているらしき今日子の台詞には幾らか呆れたが、入ってみるとなるほどよく出来ている。 居間と寝室の間には錠の下ろせる扉がちゃんと付いているし、寝室とは別に、居間にも小さな洗面所とトイレが備え付けてあった。 流石に浴室まではないから入浴時は寝室側に入れてもらわなくてはならないが、それでも充分過ぎるほど快適に過ごせる。 下手をすれば、この部屋の主であるはずの今日子とも、全く顔を合わせないまま生活出来そうなくらいだ ――もっとも、あと20分足らずで夕食なのだから、そんなことは不可能だが。
 と考えて、また小さく溜め息を吐く。フランス料理が嫌な訳でも、今日子が邪魔な訳でもない。ただ、堅苦しいのは性に合わない。 初めて袖を通した略礼服は到底着易いとは言えず、煙を吸い込む胸元さえも窮屈に感じるくらいなのだ。
 それでも流石に今日子が見立てただけあって、鏡の中の自分に口笛を吹きたくなるほど、よく似合ってはいた。 純粋な黒ではなく、僅かに緑がかった深みのある生地の色は、加賀の派手やかな佇まいによく馴染む。
「待たせちゃったわね」
 錠を外す音と同時に、今日子の声が飛び込んできた。振り向くと、富士の女神にも負けず劣らず気の強い女王様が、彼を見て満足げな笑みを浮かべている。
「似合うじゃない。もっと早く買わせておけばよかったわ」
 ……やっぱり、買って“くれる”気はないらしい。
「そりゃ、どーも」
 おどけた返事を投げながら、灰皿に煙草を押し付ける。それを見て今日子が軽く眉を顰めた。
「やぁね、食事の前に煙草だなんて。折角の味が判らなくなるわよ」
「へーきだって。旨いか不味いかくらい、俺にだって判らぁな」
 それより、と顔を上げて、加賀は目を細めた。
「あんたも。――いーんじゃねぇの、その服」
 真新しい深紅のディナードレス。色は強烈だが、シンプルで洗練されたデザインのおかげか、派手派手しさは感じない。 耳元に飾られたルビーの色とよく合って、まさに女王様然としたいでたちだ。
「ありがとう。光栄だわ」
 今日子はにっこりと微笑んだ。加賀がお世辞や追従を口にする性質ではないと知っているから、こういう誉め言葉に対する反応は素直だ。
「やーっぱ堂々としてねぇとな、女王サマは」
「そうね、」
 からかうように笑み交わして、手を取る。
「んじゃ、ま、エスコートさせていただきますか」
「頼りにしておりますわ」
 気取った口調でくすくす笑う。紅の輝きを振り零しながら、今日子の傍で耳飾りが揺れた。
→03へ続く



[2014年10月]