長い、間違い 03
思ったよりも、レストランの居心地は悪くなかった。抑えられた照明の代わりに蝋燭の光が揺れているのも、気取った音楽の代わりに低いざわめきだけが流れているのもいい。
生まれつき目立つ性質の癖に、煌びやかなのは苦手なのだ。
「外に出たら、きっと星が綺麗ね」
窓を見やりながら今日子が呟く。
「余計な光がないっていうのも、いいものだと思うわ。ここに来る度にね」
「ふぅん……」
眠らない街に君臨する女王様、というイメージからは随分かけ離れたことを言う。こんな今日子を見たら、皆は何と言うだろうか。
それでも、首を傾げる度に煌くルビーの強い輝きが、彼女はやはり女王なのだと告げていた。光源が蝋燭であるが故に尚更、血にも似た深紅の輝きが目を引く。
「加賀くん?」
「ん?」
外を見ていた筈の今日子に不意に呼ばれて、加賀は顔を上げた。
「グラスを持って。乾杯しましょう」
「……あ、うん」
気付かなかった。ぼんやりしている間に、食前酒のグラスは運ばれて来ていたらしい。
「2020年度に全力を尽くしてくれた、うちの自慢のドライバーに」
澄んだ音を立ててグラスを打ち合わせながら、加賀は目を丸くする。
「あら、なぁにその顔?」
「……意外」
「今の台詞?」
頷きながらグラスを口にする。深い金色に見える食前酒は、芳醇な梨の風味がした。
「今日はあんたの、ヤケ酒なんだろ?」
「違うわよ」
くすくす笑いながら、今日子は肩を竦めた。
「気付かない筈ないでしょ、今日がどんな日なのか」
「……他の奴らが何をしてる日なのか、って意味だな」
呆れたような感じ入ったような思いで、グラスを置く。
「つまりあんたは、仲間外れになっちまった俺を、拾い上げて労ってあげようってワケだ」
「仲間外れは私も同じよ」
少しばかり視線が揺れる。思い出しているのだろう。通い慣れた、華やかな大広間――今年も、栄光を手にして臨む筈だった表彰式。
今頃は、4度目のWCPとなったハヤトが、皆からの祝福を受けている筈だ。
「私は――いいのよ、どうせ今期は、初めから参加出来なかったんだもの。でも貴方は、」
そうじゃないでしょう、と呟くようにしてグラスの中身を喉に流し込む。
「いーさ別に。前も言ったろ、俺はあーいうのにゃキョーミねんだって。今回だってそれなりに走れたし、不満なんて持ってねーよ」
本心からの台詞だったが、それでも今日子は俯いた。
「……私がもうちょっと、しっかりしていればね。そうすれば貴方に、イヤな思いをさせないで済んだし」
確かに、一連のトラブルに盛大に巻き込まれてしまったのは事実だが。
「フィルくんも……新条くんも、あんなに傷付けないで済んだのに」
続けた声は低くて、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。おいおいどうした、大丈夫か? 心配になって少し身を乗り出した、
「……でも、」
その途端に、今日子が顔を上げた。
「もう、済んでしまったことよね。だから今日は、充分に労わせて頂戴。次回は勝つわよ、もう絶対! 加賀くんには今まで以上に目一杯やってもらわなくちゃね!」
「……はぁ」
つまりこれは、来期への伏線――ということなのか。流石だ。心配して損した、と心の中で呟いて、加賀は一気にグラスを空けた。
喉を滑り落ちる滑らかさに重なるようにして、今日子の声。
「――感謝してるわ、貴方には」
心から。そういう響きがあった。
「……おいおい、なんだよらしくねーなぁきょーこサン! んな湿っぽい声出すなって。感謝なら、契約金でどーんと示してくれりゃそれでいーんだぜぇ?」
いつも通りの、おどけた口調で応じてみせる。――それが明らかに照れ隠しだと、自分でもはっきり分かるくらいのわざとらしい声だ。
今日子は笑わなかった。ただ優しく、目を細めた。急速に速くなっていく血液の流れを映したように、加賀の視界の中でまた、紅い輝きが揺れた。
◆
で。
「……あぁ、結局、こーなるワケね……」
「っさいわねぇ、なんか言った?」
半分テーブルに突っ伏したまま、舌足らずに管を巻く今日子の頬は、グラスに残ったロゼワインと同じくらいに上気している。
日頃は猫のように油断のならない光を湛えた瞳も、潤んだ膜に覆われて、いささか迫力に欠けていた。
「やっぱしただのヤケ酒なんじゃねーか……」
まったく、既視感かと思うくらい見慣れた光景だ。こうなってしまうと、続きがどう展開するかもちゃんと知っている。
止めても聞かずに呑み続け、ますます言うことを聞かなくなり、最終的には泣き疲れた子供のように寝入ってしまう彼女を、加賀が部屋まで引きずって行くことになるのだ。
結構な苦労をして。
あーもう、俺ってばなんてお人好し。そんなことを思っては溜め息を吐いてしまう。
女にしては長身の今日子を、男にしては小柄で細身の加賀が運んでいくのは、決して楽な仕事ではない。
分かっているのに結局付き合ってしまっているのも、女王様の人徳のなせる業――なのだろうか。
「失礼ねぇ……ヤケざけ、なんかじゃ、ないわよぅ……」
今にも崩れ落ちそうに目を閉じかけた今日子に、給仕たちが心配そうな目を向けている。
「あー、悪ィ。大丈夫、この辺でちゃんと切り上げさせっから。……ほら、きょーこサン、その一杯でオシマイだぜ」
「やーよ、けちー。……たーこ。わからずや。ばーかばーか」
あああああもう、俺ってばほんとお人好し。深く大きく息を吐いて、加賀は今日子の腕を取った。剥き出しの二の腕が酷く熱くて、体内を巡る多量のアルコールを思わせる。
こりゃあ結構、かかるな。暫くは側についていてやらなければならないだろう。
「いーから立てって。しゃきっとしろよきょーこサン、ほら、女王様がそんなでどーすんだよ……鍵は? どっか持ってんだろ?」
重たい花束を抱えるような気持ちで、今日子の身体を引き起こす。と、その脇に、お仕着せの黒い腕が伸びて、今日子のハンドバッグを差し出した。椅子の上に置かれていたらしい。
「お、サンキュ」
受け取りながら、意外に酔っている自分を自覚する。
今日子を宥める立場にいるから平然と振舞えているだけで、部屋で独りになったら案外、あっさり眠り込んでしまうかも知れない。
「あー、しょーがねーなぁもー……35階って、あーくそ、遠いじゃねーか……あ、悪ィな、ごっそさん」
挨拶を投げ、苦笑するような面白がっているような視線の中を抜け、加賀は今日子を引きずるようにして歩き出した。
一応今日子の足も動いてはいるが、腕を放したら多分、その場に座り込んでしまうだろう。
「エレベーター……鍵入れねぇと、動かねーんじゃなかったか……?」
まだ大分先に思えるエレベーターホールを見やって呟くと、意外にも今日子が顔を上げて答えた。
「そうよ、鍵が要るの。バッグの中の……内ポケットの、左手、側……」
言いながらまた、とろとろと酩酊状態に戻ってしまう。酔いが醒めている訳ではないらしい。
「内ポケット、ったって」
今日子の肩を抱いたまま、片手で中を探ってみるが、小さなバッグの中から目的の物を取り出すのは難しい。
携帯電話やら手鏡の類やら、取り敢えず手に触れたものを出してみてはジャケットのポケットに突っ込んで、漸く目当てのカードキーを見付ける。
エレベーターに辿り着いたときには、その苦労だけで既に汗だくと言ってもいい程になっていた。
「あっちぃ……」
汗を拭うことさえままならない体勢。辛うじて、エレベーターを降りれば程なく今日子の部屋だ、ということだけが救いだった。
一刻も早くこの服を脱いで、ベッドでも床でもいい、とにかく横になりたい。
「暑ぅい……、窓……開けてよぉ……」
「あー、はいはい。もうちょっと辛抱な」
右肩に圧し掛かった女王様も、気持ちは同じらしい。確かに、触れている肌は熱く湿っていて、湯気でも立っていそうなくらいだ。
「ん……早く……」
「もーちっとだって」
漸く、待ちかねた扉が開いた。左へ折れて、ほんの四、五歩。セミスイートとやらの仰々しい扉に鍵を挿し込み、開錠を告げる動作音を確かめてから押し開く。
明かりも点けないまま居間を横切り、開いたままの寝室の扉を潜ると、やっと辿り着きたかった場所だ。
「ほら、よっ、と!」
半ば投げ出すように、ベッドに今日子を横たえた。
ぽすん、と音を立てて重みを受け止めたベッドは、恐らくクイーンサイズなのだろう、斜めに転がった今日子の手足がはみ出すこともない。
「うー、あっち……」
自由になった両手を軽く振り、加賀は大きな窓に向き直った。夕方には麗々たるラインを見せていた富士も、今は闇にわだかまる大きな塊でしかない。
その塊を射抜くように、力一杯窓を押し開けた。
思わず、深く息を吸い込む。熱のこもっていた頭の中を、清々しい空気が吹き清めていく。途端に、背中に貼り付いた汗の不快が甦った。
そうだ、早くこの服を脱ぎたい。頭を振って室内に向き直った加賀は――そこで、動けなくなってしまった。
ベッドに伏せていたはずの今日子が、起き上がっているのだ。しかも、その白い背を肌蹴て。
「――っ、」
何してんだ!と怒鳴りつけそうになるその寸前、今日子が立ち上がった。まだ覚束ない、雲を踏むような足取りで、それでも持ち前の長身をすらりと起こして。
緩やかに振向きざま、音もなくドレスが滑り落ちる。紅い花が、開くように。
喉元まで出掛かっていた怒声は、行き場をなくして舌の裏に貼り付いてしまった。息すら止まりそうな加賀に向かって、今日子はとろりと口を開いた。
「おふろ、はいるわ」
言い終わる前に、歩き出している。相変わらず頼りない歩調だ。いかにも酔っ払いめいたその千鳥足に、金縛りが解けた。
「と、待て! 待てってばきょーこさん、そんな状態で風呂って、」
「っさいわね、化粧も落とさずに寝られる訳ないでしょ!」
突然至極まともなことを言う。そのくせ、向き直ったその身体は無防備すぎる下着姿で、肩を掴むのさえ躊躇われる――
思わず天を仰いだ加賀を無視して、今日子はふらふらと浴室へ消えた。無機質に扉が閉まる音。
白熱灯のくすんだ明かりが灯り、続いて衣擦れのような――身動ぎの音のあと、湧き上がった水の音に漸く息を吐く。
「はー……どーしろってんだもー……」
へなへなとベッドの上に座り込む。一応、浴室の近くに居た方がいいだろう。水の音がしているうちはまだいいが、バスタブの中で眠りこみでもしたら大惨事だ。
無意識に額に手をやって、汗を拭っていた。そうだ、この汗をどうにかしたくて急いでいたんだった。思い出した途端に背中の不快が襲い掛かってくる。
「ったく、たまんねーな……」
タイを外し、ジャケットを脱ぐ。カラーを緩め、バンドを外す。ひとつひとつ衣装が減っていく度に、皮膚呼吸の感覚が戻るように楽になった。
色が変わるほど湿ってしまっているシャツで胸元を拭い、漸く息を吐いてベッドに転がる。
「……っと、」
が、目を閉じる前に起き上がった。脱ぎ散らかした服の始末が気になるのだ。
決して潔癖な性質ではないが、天引きされる給与の額を考えたら、とてもこの服を粗末に扱う気にはなれない。
クロゼットから引っ張り出したハンガーに引っ掛け、取り敢えず風通しのよさそうなところに並べておく。
ソックスと下着は諦めて、備え付けのランドリーバッグに放り込んだ。
今日子は明日もここにいる予定らしいから、まとめて持ってきてもらえるように頼んでおけば――きっと嫌味のひとつやふたつは覚悟しなくてはならないだろうが――問題ないだろう。
「あ、そうか。きょーこさんの……」
床にわだかまったままの紅い布地を認めて、やれやれと重い足を向けた。詳しくは分からないが、恐らく絹か何かの天然素材だろう。
あんなところに放っておいたら、翌朝には間違いなく皺だらけだ。
「ったく俺ってば、ほーんとお人好しなんだからなー!」
軽口を叩きながら拾い上げた。手の中でさらり、と流れる紅い滝。浴室から漏れるだけの微かな明かりの中でも、息を呑むほどの豊かな艶。
「うげぇ、高そ……」
男性である加賀にさえ、ありふれたものではないとはっきり分かるほどの上質感。しかし流石というべきか、今日子にはよく似合っていた。
淡い色よりくすんだ色より、強い色こそ彼女には相応しい。そうだ例えば、この血のような、炎のような――
「…………」
頭の中でちらりと、炎が跳ねた。赤、は彼女に、相応しい色。そして誰かを、思わせる色。
この色を、彼女から与えられている男を知っている。彼女の目が、彼を映して柔らかく輝くのを知っている。
その様子を見かける度に、身内に閃く曖昧な感情も多分、知っている。――認めたくはない。ただ、弾かれたように意識を逸らすだけだ。
だから今回もそうした。肩を竦めて大袈裟に呟く。
「……へ、ばっかばかしー」
振り向こうとする誰かの面影を掻き消すように、勢いよくハンガーに手を伸ばす。翻った紅い裾の向こうに、見えかけたものはもうなかった。
[2014年10月]