長い、間違い 04


 ――着信だ。携帯電話のバイブレーションで、加賀は眠りから引き戻された。半分眠ったままの身体が勝手に動いて、ベッドサイドの携帯を掴み、引き寄せる。
[もしもし? おれです――]
 ざわめきと共に、耳に押し寄せる声。澱んだ頭の隅に、ぱらぱらと火花が散った。訳もなくかきたてられる、舞い上がる赤のイメージ。加賀は目を、開いた。
「…新条かよ。何だよその改まった言い方」
[……加賀……か?]
 訝しげな響きに、眉を寄せる。
「他に誰が出んだよ。どうした? 何かあったのか?」
[なんでお前……何度も掛けたんだぞ、お前の携帯にも。全然出なかった癖に、どうして今日子さんの電話に加賀が出るんだよ?]
 言われて漸く、手の中の携帯が今日子のものだと悟った。ジャケットを脱いだときに取り出したまま、放りっぱなしにしていたのだ。
「あっ、悪ィ、俺のじゃねぇわコレ! 間違えて出ちまった!」
[だからなんで間違えるんだよ。今日子さんもそこにいるのか?]
「あー、一応いるっちゃいるけど風呂だからなー。たぶん暫く…」
[え? 風呂?]
 呆気に取られたような新条の声に気付く前に、加賀は思わず息を止めた。眠気も酔いも、一気に醒める。
「うわ…やっべ…」
[おい、加賀、]
 通話を切ることすらせずに携帯を放り投げ、飛び起きる。ベッドサイドの時計は9時50分。いつの間にか寝入っていたのだ。 多分、15分から20分。――水音が続く浴室には、寝入る前と同じように灯りが点いたまま。
「おい、大丈夫かきょーこさん!」
 曇りガラスの扉に飛びつき、勢いよく開ける。何を言われても構うものか、これは充分、緊急事態だ――
「……おいおいおい! 何やってんだよあんた!」
 ――湯気で満たされた浴室の奥、浴槽の底にうずくまるようにして、人影が横たわっていた。言うまでもなく今日子だ。 広がった長い髪が海藻のように肩を覆って、伏せた顔の表情は見えない。
 駆け寄って、僅かばかり安堵した。浴槽に沈んでいるのではなく、横たわっているだけだ。 どうやらきちんと栓を閉めないまま湯を溜めようとしたらしい。溜まるはずのないものをいつまでも待っているうちに、すっかり寝入ってしまったということらしかった。
「ったくもう……心臓止まるかと思ったぜ……!」
 大きく息を吐いて、棚に載せられていたバスタオルを取る。取り敢えずここから引き上げて、着替えさせなければ。多少の非礼はこの際、不問だ。
「きょーこ、さん! おーい、起きろー!」
 声を掛けながら、降り注ぎ続けていたシャワーを止めた。途端に静けさを取り戻した浴室に、気持ち良さそうな寝息の音が広がる。
「うーわ、よくおやすみのようで……おーい、きょーこさんてば!」
 掴んだ肩が、冷えていないことにほっとする。富士の麓は寒いのだ。脇に手を入れ、背中から抱え上げるようにして、引き起こした。 場所が浴室だというだけで、大抵いつも今日子と呑んだらする羽目になる動作だ――特段、苦労もない。唯一、今回は若干目のやり場に困る、というくらいが差異といえば差異か。
「下手すると後で殺されんな、俺……」
 目を逸らしたままタオルで覆ってやりながら、ぼやく。今日子の反応はない。 眠ってしまった子どもをベッドへ運ぶようなもんだ、と自分に言い聞かせながら、まだそこここから水滴を滴らせている身体を抱き上げた。 やはり、加賀とほとんど身長差のない身体は、重い。
「おーい……ここまでされてまだ起きねーの、今日子さん……」
 もはや愚痴だ。腕の中から零れる寝息は安心し切った穏やかなもので、起きようとする気配はない。 上気した肌から石鹸の匂い――髪や身体を洗い切った後で寝入ったらしい――濡れた髪から花の香り。 手に余るほどの花束を抱えて途方に暮れる、そんなイメージが一瞬頭の中に溢れた。 放り出すわけにもいかず、乱雑に扱うコトも許されず――とにかく、どうにか寝かせてやらなければ。
 浴室からベッドまでがそう遠くないのが救いだった。詰めていた息を零すようにして、ベッドの上に今日子を降ろす。
「……っと、」
 漸く肩から力を抜いて、加賀は軽く目を閉じた。これにてめでたく一件落着、とは、どう甘く見ても言い切れない。 濡れたままの髪も、タオルで軽く覆われただけの身体もなんとかしてやらねばいけないだろうし、浴室内に脱ぎ散らかされたままの衣服も一応片付ける必要があるだろう。 加賀自身、汗と冷や汗で濡れた身体に始末をつけたいし、大体、寝間着も無しにソファベッドで寝るのは些か酷だ。
 しょーがねぇな、乗り掛かった舟だ。持ち前の面倒見の良さがそう判断させる。 目を開くと加賀はまずフロントにタオル類と寝間着の追加を頼み、ベッド横のサイドランプを点け、それから開きっ放しだった窓を閉めた。 ほんの20cmほどしか開かないとはいえ、晩秋の空気を取り込むには充分だったようで、室内は既に肌寒いくらいになっている。 空調を入れ、低く唸る動作音に漸く安堵して、もう一度大きく溜め息を吐いた。
 しっかしまあ、随分な目に遭ってるよな……
 そのまま、思わず苦笑した。今日子の酒に付き合う以上、半ば以上は覚悟の上だが、それでもこれは史上最大規模の迷惑っぷりだ。 インパクトの大きさで言えば、香港で新条の解雇スレスレをめぐって揉めたり荒れたりした、あの夜に匹敵するくらい――
「――あ、電話、」
 そう言えばその新条から、電話があったのだった。用件も聞かずに切ってしまったが、確か「何度も掛けた」と言っていたから、それなりの用事があったのだろう。 折よくドアベルを鳴らした客室係からタオル類を受け取り、その足で居間に放ってあった自分の携帯電話を取り上げた。
[新条です、]
 留守電に吹き込まれた声はやはりどこか硬くて、加賀に苦笑を起こさせた。全く、不器用を絵に描いたような男だ。
[今、レセプションがおひらきになったとこなんだけど、ハヤトとか、あすかちゃんとか、あ、勿論みきも、おまえがいなくて残念だって。 それで、ちょっと話せないかと思って掛けてみたんだけど]
 確かに、背景には華やいだざわめきが聞こえた。時折「留守電?」「加賀さん?」「なんだ、つながらないの?」といった声が入り込んでくる。
[まだ暫くまとまって呑んでるから、よかったら連絡くれ。皆、待ってるから。じゃあ]
 そう告げて録音は終わっていた。耳から離して録音時刻を見る。21:43。加賀が迂闊にも眠り込んでいた時間と一致する。
「ったくヒマだね、あいつらも!」
 軽口を叩きつつも満更でもない。漸く着込んだ寝間着の暖かさも手伝って、柄にもなく身内がほわりと温かくなる気がした。 今は10時過ぎ、か。じゃあ掛け直してみても、まあ、いいかな。
 ――と、思ったのだが。
「……ん?」
 録音を聞き終わったのに、背面液晶の点滅が止まない。ということは、他にも着信履歴や受信メールがあるということか。 何気なく履歴を開いてみて一瞬固まった。新条だけではない。みき、ハヤト、あすかからそれぞれ、ご丁寧にも各1件ずつ、メールと着信履歴が残っている。
『なんだか知らないけどいきなり電話放り出すことないだろ。勝手に切らせてもらったけど、時間できたらおまえの電話からかけ直してくれ。今日子さんのことはあとで訊く』
 怖い! 最後の一言がなんか怖い!
『みんなデンワ待ってるよ〜彩ちゃんも淋しがってるしもー直接こっち来ちゃってよ!  横浜のどっかで飲んでるから場所はまた訊いて〜、で、なーんで今日子さんはお風呂なの〜?』
 ……みきちゃんにも聞こえてたのかあの会話。
『加賀さんと一緒に参加できなくて残念です! 僕からもまた連絡します。ところで今日子さんがどうしたんですか。なにかあったんですか』
『加賀さんは今どこですか? いつもなら一緒に会場に居るのに、なんか変な感じ! 今日子さんがいないのって調子狂うって、新条さんも言ってましたよ。 一緒にいるなら伝えといてください!』
 うわ、若者組の絵文字の数すごい。きらきらっぷりすごい。これがジェネレーションギャップってやつかー。
 ……などと軽い現実逃避を交えつつ、メールを閉じて天を仰いだ。 考えてみれば失言だった。今頃どんな想像で盛り上がっているのかと思うと、とても電話を掛けようという気にはなれない。
「……ったく、どいつもこいつも」
 携帯電話を放り出してぼやいた。 冷蔵庫のペットボトルを取り出して、炭酸を含んだ水をがぶがぶ身体に流し込む。喉を滑り落ちる感覚が期待以上に心地よく、自覚よりもずっと体温が上がっていたことに気付く。
 ホント、どいつもこいつも。誰よりもまず、俺自身が問題だ。
 認めて思わず目を閉じた。水を持つ手のひらが熱い。触れてはいけなかったところ、知ってはいけなかったこと、敢えて意識を逸らしていた筈のそこここからの熱が、まだ、抜けない。 そりゃ、非常事態なのだから、と、言ってしまえばそうなのだが。だが……
「……じゃ、ないわよぅ、」
「!?」
 息を呑んで目を開く。と、仰向けに転がっていた筈の今日子が、俯せの姿勢に変わっているのが目に入った。 まだ眠りから覚めた訳ではないらしく、シーツに伏せた口元から、何やら寝言めいた言葉の切れ端と、明らかな寝息が零れている。
「……驚かせんなよ、もう」
 苦笑して頭を振る。思考を中断されてよかった。何やら、引き返せないポイントに近付きつつあったような気がする。 それより先に、やらねばならないことはまだ山ほどあるのだ。
 しょーがねーな、ともう一回呟いて、加賀は重たい腰を上げた。

→05へ続く



[2014年10月]