長い、間違い 05
我ながら健気だと思う。ベッドサイドに腰掛けて、加賀は大きく息を吐いた。
すっかり寝入っている今日子をベッドまで運んだ。濡れたままの身体を取り敢えずタオルで包んでやった。
フロントを呼び出して新しいタオルと寝間着を貰った。脱ぎ散らかされたままの下着類を拾って、畳んで、一部はランドリーバッグに入れた。
中途半端に溜まったままの浴槽の湯を抜き、ひっくり返っていたシャンプー類のボトルを棚に並べた。
残酷にも床に転がっていた、ルビーの嵌った耳飾りも拾った。
自分もざっとシャワーを浴びて、適当に寝間着を引っ掛けて、手早く髪を乾かして、――そうして此処に、戻ってきた。
「……どーしたもんかね、コレは」
ちらりと視線を落として、呟く。残された最大の懸案事項。裸のままですやすや寝息を立てている、今日子本人の始末をどうつけるか、だ。
室温はもう低くはないし、大判のタオルがある程度は水滴を吸ってくれているとはいえ、基本的には浴槽から引っ張り上げたままである。
乱雑にタオルに包んでおいた髪も、化粧を落としたっきりらしい肌も、これ以上何をしてやれるというのか、加賀には到底判らない。
「きょーこさーん……起きねぇのー?」
ぺちぺちと頬を叩いて呼んでみる。――駄目だ、ちょっと唇が尖る程度が精々で、目を開ける気配は全く無い。
困った。これでは、何か着せてやるにしても、しっかりベッドの中に仕舞い込むにしても、ある程度“際どいところ”まで踏み込まざるを得ないではないか。
――浴槽から無理矢理引っ張り上げたことを考えれば、多分に今更ではあるが、それでもやっぱり、どうしても。
テーブルに放置されていた水を一口だけ呑み込み、残りを封じて冷蔵庫に仕舞う。思い切って灯りを落とす。
ドアの脇、非常用のフットライトだけがぼんやりと光って、部屋の中は静かな薄暗がりに覆われた。
「……さて、と、」
なんだかよくわからないものに勝負を挑むような気持ちで、加賀はベッドに向き直った。今日子は今もよく寝ている。心底気持ちよさそうに。
髪を包んでいるタオルを解き、丁寧に水気を拭ってやった。額の周り、こめかみの辺り、水分を含んだ肌の感触。
半分俯せた状態では表情もあまり判らないが、取り敢えず寒さに震えているという訳ではなさそうだ。
大きめのバスタオルの下、呼吸に合わせて上下する、なだらかな脇腹のラインに手を触れる。
タオルごとなぞるようにして、拭き取る。幾らかの冷たさと湿った感覚。流石にこのままにはしておけない。
数秒でもいいから起き上がってくれたら、下敷きになっている毛布を引き抜くことが出来るのだが。
「おーい、きょーこさーん、」
呼びかけは懇願と言うより愚痴だった。幾ら明るい口調に努めてみても、半分以上、諦めている。揺さぶった肩が小さく丸くて、知らず右手に力を込めた。
「…起きてくれよ、おーい…」
薄明かりに照らされて、化粧っ気のない顔は彫像めいて見える。線のくっきりした、如何にも気の強そうな顔立ち。
それでも、閉じた瞼を縁取る睫毛は長く、シーツに押し付けられた唇はふっくりと柔らかで、どこかあどけない少女の気配が残っている。
……天下無敵の、女王様、か。
動きを止めて、じっと見つめた。確かに見慣れた今日子の筈なのに、本当にそうなのかと確認したくなる。
頭の天辺から足の爪先まで、それこそ一分の隙もない、手強い女というのが普段の今日子のイメージだ。
その彼女が、こんなにも無防備でしどけない姿を晒すのは、こうして酔い潰れた時くらいのものだろう。
もっとも、もともと酒に強くプライドも高い今日子が、人前で酔い潰れること自体滅多にありはしないのだが――
だからきっと、誰も知らない。今ここにいる、加賀以外は。
(――よせよ、)
頭の片隅で、制止の言葉が低く響く。噛み潰すように無視して立ち上がった。きし、とベッドが小さく鳴って、今日子の寝息が微かに乱れる。
抱え上げて、毛布を一枚めくりあげて、もう一度そこに下ろしてやって、――そしたら、ここから離れればいい。何も難しいことではない。
なのに、立ち尽くしてしまうのは。
(よせってば、ばか、考えるな、)
――この女が、特別だからだ。
額の裏で容赦ない一言が閃いて、突っ立ったまま目を閉じた。とうとう認めてしまった、と思った。酔いなんてとっくに醒めている。
午前零時の数分前、低く溢れる空調の音。柔らかく響く、今日子の呼吸。
ずるずると、崩れ落ちるみたいに膝をついた。ベッドに頬杖をつくようにして、諦め混じりの溜め息をひとつ。吐息が彼女の頬を撫でる。何の反応も起こせないままに。
「なあ、きょーこさん、」
自分の声が熱っぽくて、唇の端が情けなく歪んだ。心臓がとくとくと跳ねている。駆け巡る血液がじんわりと熱くなっている。
童貞野郎じゃあるまいに、たかが職場の同僚ひとり、どうしても手を伸ばせなくて、溜め息混じりに名前を呼んだ。
特別な女だ。傷つけたくない。怒らせたくない。寄せられる信頼を、決して裏切りたくはない。
「……どうすりゃいいんだよ、俺」
“加賀”の役割は、ここじゃない。我侭に振り回されて、呆れたり悔しがったりしてみせて、運転手になり、お供になり、一緒に呑んで、笑って笑わせて、
――そこで終わりの、筈だった。
見ている相手は、俺じゃない。額の裏をぴりぴりと焼く、赤い、朱い、火花のイメージ。
肩肘張った生真面目な声、ひたと据えられた切れ長の瞳。焦りを含んで早くなる口調も、感情を隠しきれない雄弁な眼差しも、加賀はよく知っている。
――今日子の見つめる先にあるから、知りたくもないのに知っている。
微笑ましく見守っているつもりだった。にやにやと眺め、口を挟んでからかい、鈍い彼が目を見開いたり、取り澄ました彼女が赤面したりするのを見て笑うのが好きだった。
いつから、手を伸ばしたいだなんて、思うようになってしまったんだろう。
疎いくせに、情が深い女なのだ。手のかかる子ほど可愛いなどと言うけれど、たぶん初めはそんな程度だったのだろう。
甘く優しい、きらきらした感情の花束を、抱え切れないほどまでにしてしまったのはいつごろか。
からかい混じりに指摘してやったその時にはもう、とっくに手遅れだったのだ。――彼女にとっても、自分にとっても。
不毛だと、頭の中では解っている。解っているのに、心のどこかが納得しなくて、だからこうして立ち尽くすしかない。
俺だったら。彼女がそうっと見つめる先に、立っているのが自分だったら、こんな簡単な話はないのに。
差し出した手を振り払われるかもなんて、本音に嫌悪を向けられるかもなんて、馬鹿げた不安は抱かないのに。
「……、」
言い訳じみた葛藤が、火花みたいに胸を焼いた。求められてるのは俺じゃない、でも、代わりに受け取るくらいなら。それくらいなら、許されても、だなんて。
抱え切れない大きな花束。持て余したまま息を詰めてる、あんたの助けになってやれたら──
「どうすんだよ……ホント……」
目を伏せて呟いた、その声に応えるみたいにして。
「…、くん?」
今日子が目を、開けた。
「え、」
一瞬、思考が空白になる。色彩の消えた薄暗がり、かちりとぶつかり合った視線、息を呑む加賀の目の前で、ゆらゆらと首が持ち上がる。
「……っ、わ、うわわわ!」
飛び退いたのは何秒後だったか。勢い余って背後のソファに倒れ込む。深夜にしてはあまりにも派手な音がしたが、今日子が気にする気配はない。
「きょ、きょーこさん、あんた、起きて……」
「……なに? なんで? どうしたの、」
ふらふらと頭を振って、曖昧な口調で呟く。どうやら“目が覚めた”というほどではないらしい。寝惚けているのか、と顔を覗き込んだ途端、今日子がゆるりと体を起こした。
「……っ!」
伏せられていた身体が、開く。腰から滑り落ちるタオルの、ぱさ、という音がやけに響いた。
目を逸らし続けていた白い胸元が、柔らかな下腹が、撃ち抜くように目に飛び込んでくる。
目眩がした。失われる平衡感覚。刹那の隙を衝くように、温かな気配がしなだれて、加賀の方へと倒れ掛かる。
「ちょ――」
「ねむいの……なに、夢?」
何かを探ろうと伸ばされた腕が、加賀の首筋に絡み付いた。冷えていた筈の肌が熱い。胸に直接触れて来る肌の感触は生々しく、抗議の声さえ貼り付いた喉から出なかった。
「……かがくん?」
足りない情報を補おうとするかのように、手のひらが首を、背を、肩を掴んで撫で回す。酷く高い体温は、眠気の差した小さな子どもを思わせた。
よせよ。そう言いたいのに、声が出ない。
「……なんで? どこなの、これ、夢?」
実際、夢でも見ているかのような口調で今日子は低く呟いている。見えない筈の暗闇の向こうに、蕩けた瞳と濡れた唇が見える、ような、気がする。
「……そうね? 眠いの? ん、あたし、さむい……」
辻褄の合わない言葉を零して、今日子の気配がぐらりと揺れた。温かい、艶めかしい圧力。薄い闇を一枚隔てて、吐息が微かに頬を撫でる。
ああ、もう、駄目だ。頭のどこかで、諦め切った声がする。それでも加賀は頭を振って、どうにか声を押し出そうとした。
「よせ、きょーこさ――」
言い終われなかった。温かい柔らかい何かが、唇を塞いでいる感触。駄目だ。コレが何なのか、今どうなっているのか、そんなところを考えては。
とにかく思考を遮断して、ひたすら今日子を突き放そうとする――
「……っ!」
ちゅ、と濡れた音がした。唇の間、薄く開いたその隙間を、そっと押し広げるように舐め上げている、舌。
混じっていく唾液に毒でも含まれているように、突き放そうとした手から力が抜けた。
(――あ、)
身体が反応しようとしているのが、わかる。もう長いこと、女に触れていなかった。必要性すら感じていなかった筈なのに、乾いた土に水を撒くように、甘い痺れが一気に広がる。
[ 夢? ……そうね? ]
――ああ、そうだ。そうだな、夢だ、今日子さん。
肩に触れていた手を、彼女の背中に滑らせた。あの白い背な――紅い花の開いた後に、艶やかな匂いを振り撒く、滑らかな肌。
これは夢だ。どうせ夢。――だからもう、流されたって、いい、だろう?
どうせ今更、後には引けない。奪い返すように舌を絡めながら、強く引き寄せて抱き締めた。視界が乱れて、目眩がする。ああ、もういい。流されてやる。
抱え切れない花束の、香りに顔を埋めるように。
頭の片隅でまた、小さな赤い火花が弾けて――そして今度は、全身へ燃え広がっていくのが、わかった。
[2014年11月]