長い、間違い 06


「加賀くん? いつまで寝てるつもりなの!」
「ってててて! いてぇ!」
 目覚めは唐突で、しかも酷く色気のないものだった。ちぎれるかと思うほど耳を引っ張られて、飛び起きたのだ。
「チェックアウトまで2時間ないのよ。さあ、早く起きて!」
「ってぇ……。容赦ねーな…!」
 しかも、痛いのは耳ばかりではなく。
「ぐあ……アっタマ、痛ぇ…!」
 思わず頭を抱えて再びベッドに倒れ込んだ加賀に、今日子の呆れ声が降り注ぐ。
「なによ、二日酔い? だらしないわねぇ。もういい年齢なんだから、自分の限界くらいちゃんと弁えておいて頂戴」
 ……あんたが言うか!
 という心の叫びは声にはならない。軽口の応酬を楽しめるほどの体力も余裕もなかったし、大体、彼女にどこまで昨夜の記憶があるのやら怪しいものだ。 呑み始めたまでは勿論きちんとあるにしても、また酔い潰れたことやら、加賀に運んでこられたことやら、風呂で寝入っていたことやら、それから――
(――それから、は、さすがに気付いてんだろうなぁ……。)
 枕に顔を埋めていてよかった。赤面も、絶望的な表情も、彼女からは取り敢えず見えないだろう。 当然、彼女だって理解している筈、だった。一糸纏わぬ恰好で目覚めて、隣に同じ格好の男が転がっていれば、嫌でも一通りの見当はつく。 ましてや、昨夜は手加減も避妊も施す余裕がなくて――と、そこまで考えて、頭痛の度合いが増したように感じた。
 まずい。どう考えたってまずい。 少し落ち着いて自分の身体を見れば、どこに何をされたかくらいは判ってしまう。ただでさえ許し難い行為を働いた挙げ句、万一の結果にでもなったら?  ……激怒なんてもんじゃ、済まない。
「…大分、酷いみたいね? 大丈夫?」
 静かに悶絶する加賀をどう解釈したのか、口調を和らげて今日子が尋ねる。
「や、ダメ。起きらんねぇ…」
「コンチネンタルブレックファストは失敗だったかしら……和食にすればよかったわ」
「なんだよそれ、」
「お味噌汁って、二日酔いに効くっていうでしょう?」
「……どっちみち喉通んねっす…」
 実際、食欲なんか皆無だ。今の言い方からすると今日子の方では既に二人分の朝食を用意させているらしい。 無理矢理頭を持ち上げて見やると、窓際のサイドテーブル、湯気を立てるコーヒーカップが見えた。そういえば先程からの香ばしい香り。これか。 そうしてその湯気の向こうに、すっかりいつも通りの顔をした今日子。
 さっすが、女王様はダテじゃない。朝食どころか着替えも身支度も全て終えて、それでも起きないバカを叩き起こす作業に入ったという訳か。 あれだけ呑んであんなべろべろだったのに、なんともまぁ、タフだ。
「コーヒーよりお茶の方がいいかしら。緑茶かなんか持ってこさせる?」
「いや、いい。後でコーヒーだけもらうわ。……とりあえず、風呂……」
 倒れたまま差し上げた手だけをひらひら振って見せる加賀に、今日子がまた呆れた声を出した。
「大丈夫なの? 中で倒れないで頂戴よ」
 ……だから、あんたが言うなっつーの!
 やっぱり、口には出さないが。重い頭をなんとかシーツから引き剥がし、そのシーツをベッドから剥がして、肩から被る。 立ち上がると、窓越しの陽射しが目を掠めた。思わず細める目の隙間から、白く雪を被った富士山が見える。秀麗にして清冽――日本一の女神が住まう山だ。
「倒れてたら骨は拾ってくれ……」
「はいはい、ごゆっくりどーぞ」
 なるべく今日子の方を見ないようにして、浴室の扉を潜った。 曇りガラスの扉を閉めると、声を立てずに息を吐く。それだけでまた、こめかみが痛んだ。
(あー。当分、顔、見れねーな……)
 俯いて眉間を押さえた。
(柄じゃねーんだけどなぁ、こんな、……純情ぶったハナシ。)
 取り敢えず、直接顔を合わせずに済む空間にいられるのは幸いだった。栓を捻れば迸る湯の音。彼女の気配がより一層遠ざかる。
 それにしても、だ。小さな湯船にみるみる湯が溜まっていくのを見ながら、取り留めもなく考える。
 ……平然としたもんだったなぁ、今日子さん。
 こっちがこんなに動揺してるってのに、あの涼しい顔はどういうことだ。 怒る筋合いもないのに勝手に腹が立ってくるくらい、今朝の彼女の態度は自然で堂々としたものだった。
 ――もしかして全く記憶がない、とか……あるわきゃねーか。
 思った側から否定する。万一そうだったとしたって、何があったか判らない筈がないのは、先刻思いめぐらせたばかりだ。
 だとしたら。熱い湯の中に滑り込みながら考える。
 ……この程度、大したコトじゃない、ってのか。
 つきり、と頭の奥が痛んだ。湯の温度の所為ばかりではなさそうな。
 もしかしたらこんなこと、しょっちゅうあるのかも知れない。いつも忙しく飛び回っている身分だし、当然外泊だってちょくちょくある訳で、 その間に誰と何をしているのかなんて、咎め立てられたりはしないのだ。 年齢からしても経験値からしてもまあ「大人の女」の範疇に入れていいのだろうし、実際、昨夜の手際はそれなりに――
「……って、アホか!」
 思わず口に出して頭を振った。そして痛みに頭を抱えた。ずき、ずき、痛いのは頭か胸なのか、酒の所為なのか、それとも。
 半分以上湯に沈んだまま、手だけを伸ばしてボディーソープのボトルを引き寄せる。乱雑に押し出した白い中身から、昨夜の今日子の香りがした。


 顔を上げた今日子と、ちょうど目が合った。手元に広げられた新聞は地方紙と経済紙の二種類、今日も朝から女王様は、本業のお仕事に余念がない。
「あら、早かったわね。もう大丈夫?」
「んにゃ、ダメダメ。そー簡単には抜けねぇな」
 窓の眩しさに顔を顰めてそう答える。実際、それだけでまた頭の芯がずきりと痛んだ。
「チェックアウト、11時だけど。間に合う?」
 時計の針は9時47分。身支度そのものには大した手間はかからないから、この頭痛を何とかやり過ごしさえすれば問題ない。
「まあ大丈夫だろ……とりあえず着替えてくるわ……」
 と、居間へ抜けようとして気付いた。チェックアウト?
「……今日子さん、今夜は泊まんねーの?」
 口に出すまでは素朴な疑問のつもりだったが、実際に声にしてみると、妙に含むところがあるように聞こえる。 血が上った顔を見られまいとわざとらしく頭にかぶったタオルを引っ掻き回した加賀に、今日子は小さな笑い声を上げた。対照的に、平然と。
「大丈夫よ、夕方まではこっちにいるから。洗濯ものは受け取ってから帰るわ」
「あー、……そう。どーも」
 居た堪れなくなって顔を背ける。全く、この温度差は何だ? こっちばかりが熱くなって、ホント、みっともねーったら――
「加賀くん、」
 新聞を置く音と同時に、彼女が呼んだ。居間へ進もうとしていた足を、止める。振り向きはしないままだ。
「今日、なんだけどね。……人と会う約束があるって、話したかしら」
「あー。言ってたな、そーいや」
 かちゃり、と軽い金属音。デスクの上の鍵に触れた音だ。背中に、今日子の視線を感じる。
「それでね。……会社まで、送ってくれるっていうから。貴方は先に、戻ってていいわ」
「……アンタの車で?」
「ええ。社の駐車場に入れておいてくれる? 鍵は付けたままで構わないから」
「……了解。お預かりしましょ、女王サマ」
 振り返らなくても分かる。彼女の視線が、困ったように下がる。加賀の受け答えの中に、微かな棘を感じ取っているのだろう。
 ――くっそ、大人げねぇ。
 自分自身に気付いても、口から出てしまった言葉は戻せない。皮肉っぽい口調の原因は分かっている。訊きたいのだ。「そいつ、男か?」と。バカか!
 頭をひとつ振って、止まっていた足を踏み出した。扉を閉めようとした寸前、隙間を潜って声が届く。
「加賀くん、」
 うわ、イヤな予感。自嘲の笑いが頬を歪める。
「あのね、昨夜は、……ごめんなさい、」
 ――ごめんなさい。痛む頭の芯に、ずんと氷の針が刺さる。
「こっちは大丈夫だから、……気にしないように、するから。……貴方も、そうして頂戴。……ね?」
 気にしないように、か。何もなかったように。――今までと、全く同じように。そのままでいろ、と、そう言うのか。
 ――無茶言うなよ、きょーこサン。
 貼り付いた笑いは剥がれなかった。だから返事は、皮肉な響きが混じったままになった。
「はいはい、りょーかい。気になんかしねぇよ、女王サマ!」
 反応を聞く前に、扉を閉じた。厚い木材が気配を遮断する。――それでも、どこかから視線を感じて、目を上げた。
 広すぎる窓の向こう。勝気な女神の住まう山が、きらきらと加賀を見ていた。

→07へ続く



[2014年11月]