長い、間違い 08


 ――結局、そのまま3日経った。よくある話だ、〆切がある訳でもないし、偶々適当な時間が取れなかった、それだけなのだが。 今夜こそ、だなんて、ガキみたいに気負っている自分が情けなくて可笑しい。叩き込んだニコチンでも抑え切れない微かな緊張。レース前でもないってのに、全く!
 手のひらの中の携帯電話、点滅している発信ボタンの薄青い光。表示されている名前も番号も合っている、この曜日のこの時間ならまず間違いなく繋がる。 準備は万端、後は覚悟を決めるだけだ。息を吸った。ボタンに指を置いた。目を閉じて、シグナルの赤い光を思い浮かべる。3――2――1――ブラックアウト。 ゼロ、と呟いて端末を耳に当て、強く発信ボタンを押した。
[はい、]
 3コールめの終わりに彼女が出た。馴染んだ声。いつも通りの――悪気なく澄ました、よく通る声だ。
「よぉ、きょーこさん。お元気ー?」
[分けて差し上げたいくらい元気よ、おかげさまでね。久しぶりじゃない、貴方こそどうなの? 随分、こっちに顔出してないわよね]
 全く、大したもんだよアンタは。心の中でだけ呟いて溜め息を吐く。多少は気まずいと思ってて電話に出ないかも知れない、だなんて、思ってた俺がバカでした、はい。
「相っ変わらずなぁ今日子さん……。んなとんがるなって。割と最近、そっち行ったんだぜ?」
[え? いつごろ?]
「10日、かな。火曜日」
[おかしいわね、平日だったら、そんなに長く留守にはしない筈なんだけど]
 不思議そうに呟く声に、苦いようなむず痒いような、形容しがたい気持ちになる。 何のことはない、会議だか打ち合わせだかで彼女が短時間席を外す、その予定を知っていてわざわざ、際どいタイミングで会いに行ったのだ。
 平然と話す気にはとてもなれなくて、それでも様子は知りたくて。片桐たちが、すぐ戻るはずですから!と頻りに引き留めてくれたが、 寄ってみただけだからと弁解にもならない弁解をして、逃げるように戻ってきた。それがほんの、一週間かそこら前のことだ。
[で、今、どこからなの? 日本にいるのかしら?]
「いや、カリフォルニア。けっこー久しぶりなんだけどさ、やーっぱここの空って狂ってんな、真冬だってのにバカみてぇに青いの」
[貴方こそ相変わらずじゃない。空にまで文句付けるつもり?]
 わざとらしく呆れた口調で、けれど面白そうに言う。
[で、どうかしたの? わざわざ貴方から掛けてくるなんて]
 うっかり聞き惚れかけていた加賀を、幾分真面目になった彼女の声が引き戻した。
「あー……うん。そう。ちっとばかし、頼みがあって」
[頼み?]
 努めて軽く、さりげなく。口から滑り出していく自分の声に注意深く耳を傾ける。大丈夫、余裕も落ち着きもある。ように聞こえる筈だ。たぶん。
「っとさ、金曜なんだけどよ」
[まさか、参加しないなんて言うんじゃないでしょうね]
 受話器越しにも眉を顰めたのがくっきりと判るくらいの、不機嫌な声。苦笑して首を振った。
「今更んなコト言わねーって。行くさ、行くけど、その前にちょっと……」
 止まってしまいそうな呼吸を、無理矢理に繋げて。
「会えねーかな、あんたと。……相談……つーか、話したいことが、ある」
[……電話やメールじゃ済まないような話、なのね?]
 質問ではなく、確認の口調。遠慮や駆け引きが効くような間柄ではない。それをわざわざ面談で希望するのだから、余程のことだろうと思われるのは当然だった。
「ま、そーだな――たぶんな」
[それで、]
 少し、ほんの少しだけ緊張した声で――或いはそれは、加賀の思い込みに過ぎないのかも知れなかったが――もうひとつ、今日子は訊ねた。
[その話は……仕事のこと、なのよね?]
「……ああ」
 動機や経緯はともかく、彼女に伝えるべき結論だけ言えば、それは間違いなくビジネスの範疇だ。嘘は吐いていない。それでも、胸の奥が鈍く痛むのを、否定することは出来なかった。
[そう……わかったわ。出来る用意はしておくから]
 微かに寂しげな声で、今日子はそう答えた。薄々予測はついているのだろう。また、胸が苦しくなる。
[17時頃でいいかしらね。直接、私のオフィスまで来てくれる? その時間なら居ると思うから]
 了解の返事を返して受話器を離そうとしたとき、重い空気を振り払おうとするように、笑いを含んだ声が付け加えた。
[但し、忘年会に遅刻しないように――ちゃんと着替えてから来るのよ、いい?]
「へいへい、承知してますよ、女王様!」
 加賀も笑って答えた。“ちゃんと着替えてから”、つまり、あのとき彼女が選んでくれた、あの服を着て行くことになるのだろう。 あの夜の始まりに繋がる、よく晴れた秋の終わりの――。
 落とした視線の先、彼女の紅の幻がゆらりと、揺れた。

→09へ続く



[2014年12月]