長い、間違い 09


 広すぎる窓から、夕暮れに溶けて行く街が見える。冬至を過ぎたばかりの日暮れは早くて、夕焼けのオレンジは既に半分も残っていなかった。
 煙草の煙を透かすようにして、眺める見慣れた風景。いつの間にか入り浸るようになっていた彼女のオフィスからは、冬のよく晴れた日なら、真っ直ぐ西に富士の姿も望めた。
 いつも鮮やかに磨き上げられた窓と、整った室内。対照的に書類で溢れ返るデスク。目をやって、あまりの彼女らしさに思わず笑ってしまう。
「ごめんなさいね、待たせてしまって」
 その彼女の声が、加賀を振り向かせた。急ぎ足で来たのだろう、平然とした顔を装ってはいるが、肩が微かに上下している。 パーティー・スーツとでもいうのだろうか、普段より幾らか華やかなスーツが暑そうだ。
「待ったっつーほど待っちゃいねぇさ。ほんの3、4分だろ」
「そうだけど、」
 重たげなファイルやらノートやらをどさどさと机の上に積み重ね、今日子は空いた手を広げて加賀に向き直った。
「私がこんな様じゃ、今度から貴方を叱れないじゃない」
「望むところだぜ?」
 くすくす笑う。馴染んだ会話、こなれたやりとり。そうだ、いつからかここは、ひどく居心地のいい場所になってしまっていた。
「少なくとも今日は、叱らなくて済みそうね。パーティーにも間に合うし、おかしな恰好もしてないし」
「おかしなってこたねーだろ、オイ」
 真面目な顔で加賀の服装をまじまじと見つめている今日子に、思わず軽くツッコミを入れる。半分以上は照れ隠しだ。 幾分ラフに着崩してはいるが、選んだジャケットは結局、彼女が見立てたあの服なのだから。
「いいわ、早いところ本題に入りましょう。……座って?」
 応接机を挟んで置かれたソファに腰を下ろしながら、目線で加賀を促す。加賀はしかし、首を横に振った。
「いんだよ、んなかしこまったカタチじゃなくても。……外、見ながら話してぇんだ。今、いちばん面白い時間だろ?」
 返事を待たずに窓に向き直った。オレンジは殆ど消えてしまい、代わりに薄闇が山の端へ向かって押し寄せている。 ぽつりぽつりと灯っていた街の明かりが数を増し、ガラスビーズを散りばめたように見えていた。“宝石箱のような”と謳われる街の夜景に変わるのも、もうじきだろう。
「そうね。私も好きよ、この時間。明かりを点けずにいると、外の光がよく判るの」
 呼び寄せるのを早々に諦めたらしい今日子の、静かな声音。夜の直前に横たわる密やかな緊張に、少しばかり頬を歪めて、細く煙を吐き出した。
「それで、」
 本のページをめくるように、穏やかに、だか確かに。
「話したいこと、っていうのは――?」
 戻れないところへ足を踏み入れるように、彼女が、尋ねる。
「……アンタのことだからたぶん、薄々、気付いちゃいるんだろ」
「やっぱり、そうなのね」
 溜め息のような答えと、紙の擦れる音。
「契約書類一式、用意してあるわ。……こういう話、でしょう?」
「ご明察」
 彼女の前に広げられたであろう紙切れと、そこに書かれている内容を思って、皮肉に笑う。机の上の灰皿に強く、煙草を押し付けて消した。
「きっちり払うさ、違約金は。――金で自由が買えるんならな」
「金額は、分かってるわね?」
 勿論、気軽に払える額ではないのは承知だ。だがこの際、そんなことは問題ではない。
「予想はしていたけど、……駄目ね、やっぱりちょっと、ショックだわ」
 苦笑いするような声で吐き出された台詞が、また加賀の頬を歪ませる。
「新条もいない、俺もいない、じゃあな。そりゃ淋シイよなぁ、女王様?」
「当たり前よ」
 言う割には動揺する素振りもなく、今日子は言葉を続けた。
「それでも、引き留めさせてもらうわ。――加賀くん、」
 立ち上がり、加賀の方へ向き直る気配。
「考え直して頂戴。来々期も、出来ればその先も、うちのドライバーは貴方であってほしいと、思っています」
「……そりゃ、どーも」
 加賀は振り返らなかった。窓の外はますます暗く、冷たい夜の色に沈んでいく。ガラスに映る自分の顔は、笑っているのに酷く脆く――まるで泣き出しそうに、見えた。
「言ったところで引き留められるとも、思っちゃいねーんだろ、どうせ」
「当たり前よ」
 先刻と同じ台詞を、違う響きで呟いて。今日子は微かに、俯いた。ガラスの表面に映る彼女の顔が、影に沈む。
「……理由くらいは、聞かせてくれるんでしょう?」
 だから、そう言った彼女がどんな顔をしているのか、見ている加賀には判らなかった。気配を探り合い、疑問形で会話する。まるで別れ話だ、そんな風に思うとまた、胸の底が痛んだ。
「こういうワケです、って、はっきり言えるようなもんでもねぇけどな。……俺だって、迷ったり悩んだりはするんだぜ?  正直に言や今だって、自分でもよくわかんねぇとこばっかりだ」
 応えも反論もなかった。ただ自分の、声の余韻と呼吸の音だけ。
「丸一年好きに走れねぇのはどうにも、ってのもひとつ。チームに振り回された去年に懲りたってのもひとつ。そろそろまた、派手に無茶してみえてぇ気になった、ってのもひとつだし、」
 右手を挙げて、冷えたガラスに押し当てた。薄闇に映る彼女の姿を、ちょうど隠してしまえるように。上がり続ける体温が、僅かにガラスに冷やされて、冷める。
「それに、なにより、」
 それでも、躊躇う。彼女の顔は、見えないのに。
「もう、俺が、ヤなんだよ。……アンタのとこで、走るのは」
 押し出した言葉は、平然と冷たく聞こえただろうか。そうであってほしい。もう、熱過ぎる血の流れの所為で、自分の耳では判断も出来ない。
 けれど、彼女が吐息を零したのは、聞こえた。
「――性に合わない、って、言ってたわね。あのとき」
 もう5年も前のことだ。この女王様を、生意気で憎たらしい女だとしか思っていなかった頃の、衝突の後の、捨て台詞。
「貴方がそういう人だってこと、わかってたわ。……わかるようになった、つもりだった。だからもう、あのときみたいなことには、……ならないだろうと、思ってたの」
「生憎だったな、……女王サマ」
「よして頂戴」
 微かに苛立ちを含んだ声は、あまりにもいつも通りで。何度も何度も、彼女をからかい反発する度に耳にした、その声。その口調。
「変わんねーよ、俺もアンタも、中身はそのままなんだから。“あのとき”とおんなじになったところで、別になんにもおかしかねーだろ」
「……そんなこと、ないわ」
 そう答えた語尾が、微かに、震えた。気付いて思わず、息を止める。
「貴方がどうかは、知らないけど。……私は、違うわ。わたし、は、」
 小さく、途切れる声。何かを堪えているような。
「いやよ、貴方が…また、いなく、なるのは…」
「…………、」
 息が。息が、詰まる。応じることも、名を呼んでやることも出来ないまま、加賀はただ、窓ガラスに触れていた手を、下ろした。 薄闇色のガラスの中。俯いたままの彼女の肩が――震えている?
 何も聞こえなくなった。何も考えられなくなった。本能が命じているかのように、振り向く。
 直接、目の中に飛び込んで来た彼女の姿は。俯いて、細い肩を強張らせている姿は。
 どう見たって、声を殺して泣いているように、しか――
「――きょーこさんっ!」
 やっと声が出た、と思った時にはもう、身体は動いていた。腕を掴んで、顔を上げさせる。酔ってもいないのに紅潮した肌は熱くて、そして、涙で酷く濡れていて。
「なんで、」
 息が、詰まる。掴んだ腕から伝わる震えが、加賀の声まで震わせた。
「なんで、泣いたり、すんだよ……これっくらいの、ことで……!」
「よして頂戴、」
 もう一度、同じ台詞。けれど今度は、明らかに涙声だ。また俯こうとする顎を捉えて、上げさせる。
「――放っておいて!」
 突然、悲鳴のように彼女は叫んだ。振り解こうと強くもがく、手。
 ほっとけるわけ、ねぇだろ。だってアンタが、
 あんたが、
 泣いてるんだ、そうだろ?
「……ほっとけるわけ、ねぇよ」
 確かめるように、呟いて。
「――――!」
 反応する隙も与えずに、抱き締めた。彼女が息を呑むのが、判る。温かくて、柔らかくて、花によく似た香りがする――何度も夢に見た、彼女の身体。
 彼女は泣いているのに。彼女に拒まれているのに、それなのに嬉しくて、泣きたいくらい嬉しくて、加賀は深く息を吐いた。
 それが合図だったみたいに、止まっていた彼女の呼吸が、戻る。最早隠す気もない嗚咽を混じらせて。
「なんで、……なんで、こんなこと、するのよ、」
 なんて甘やかで、致命的な問い。答えないまま目を閉じる。
「…イヤなんでしょう? 辞めるんでしょう、じゃあなんでなのよ! よしてよ、こんな、中途半端な、」
 苦しげに息を詰めながら。台詞は怒っているのに、声は酷く弱々しく透明で、胸が潰れてしまいそうになる。
「貴方、残酷なのよ……っ、わかってるの!? 半端に、優しく、されるのが、どんなに……傷付くか、わかってる!? こんな、お情けなんて、御免だわ、 ……好きな人、に、同情されるなんて、こんな、惨めなことって……!」
「――なんつった、今」
 弾かれたように目を開けて、身を起こした。涙でぐしゃぐしゃになった顔を子どものように振って、彼女が叫ぶ。
「残酷だって言ったのよ、こんな……こんなのって、惨めだって……!」
「その前、」
 耳元で鼓動が、聞こえる。破裂しそうなくらい速くなる血流。
「その、前だ……さっき、……なんつった?」
「……っ、」
 逸らそうとする瞳を、逃してやる気なんてなかった。捉えて、覗き込む。酷く濡れて揺らめく瞳に、はっきり映る自分の顔――
「…なによ、」
 泣き声の癖に突っ張った、彼女の声。
「好きな人がこんなに残酷だなんて、自分が惨めだって言ってるのよ!」
「――っ」
 目が、眩んだ。血の流れの中で幾つも火花が弾け飛び、何かの薬物のように全身を痺れさせる。
「ちょっと……!」
 ――気付いたら彼女ごと、床にへたり込んでいた。
「……ダメだ。死ぬかも」
「え?」
 自分にも聞こえないくらい低い声で呟いた加賀の口元に、思わず今日子は耳を寄せる。その隙を衝いてもう一度――思いっ切り、抱き締めた。
「な、」
「幻覚じゃねーよな? 今、あんた、スキナヒトって言ったよな……?」
 ああもう、破裂しそうだ。彼女の耳朶に触れるくらい近くで、囁く。
「それって、なあ……俺のコト、なんだな、きょーこさん?」
 返事はなかった。ただ、唇に感じる耳朶の温度が、急に高く、熱くなった、その事実だけで充分だった。
 深く長く、息を吐く。荒れ狂う心臓が、少し鎮まるのを待つ。抱いた手を少し緩めて、彼女の背を包むようにしながら、目を閉じた。
「……もっと早く、言ってくれよ。バカみてーじゃん俺……つーか、どうして断ったりしたんだよ……」
「ことわったり…?」
 戸惑う口調で彼女が呟く。思わず目を開けて今日子を見た。
「……それ、なんのこと?」
「なんの、って、」
 照れも忘れて心底不思議そうな顔をしている彼女を、思わずまじまじと見てしまう。
 ――まさか、このひと…。
「……自覚ねぇの?」
「だから、なんのこと?」
 ――さっきとは違う意味で、目眩がする。
「アンタ、言っただろ。“ごめんなさい”って」
「え?」
 驚きに丸くなる、濡れた瞳。
「なんでそれが、断ったになるの…?」
「だあああああ! もう!」
 思わず手を放して、自分の頭を抱える。
「あのなぁ! アンタいくつだよ、分かんだろ!? ゴメンナサイなんてのは、断り文句の常套句だろが!」
「そ、」
 絶句。ただでさえ紅潮していた彼女の頬を、さあっと濃い赤が駆け上っていく。
「そんな……うそ……」
「――嘘や冗談で言うか、んなコト」
 早口に呟く。実際、気恥ずかしさで倒れそうだ。
「だって加賀くん、何でもないって顔……してたじゃない……」
 あ。――なんだ、そうか。
 思わず動きを止める。同じじゃねーか、俺と。
「あなたがやさしいのは、わかってたから――同情させてしまったんだと、思って、」
「……ばぁか、」
 目を逸らして、応えた。
「同情程度で、あんな風にゃならねーよ」
 返事はなかったが、彼女が羞恥に息を詰めた気配は判った。……というコトは、“あんな風”に心当たりがあるってことか。そうなのか。
 気付いた途端、身体の芯が熱くなる。ぎこちなく顔を背けた加賀に、今日子が心配そうな声を掛けた。
「加賀くん? ……どうかしたの?」
「…んあー、ちょっと」
 目を逸らしたまま、手を伸ばして。――つい、と彼女を抱き寄せた。
「え?」
「……思い出したら、“あんな風”にまた、なりそうでして」
「え? え?」
 明らかに押し倒そうとする体勢で、真剣に尋ねる。
「まだ時間はあるんで、……よろしいでしょーか?」
「……っ!」
 明かりを点けないままの、居心地のよいその部屋に。
 小気味よいほどの平手打ちの音と、甘えた抗議の声が響いた。
→10へ続く



[2014年12月]