広海という名に覚えのある方が、美知思波に何人おられるだろうか。私自身、この歌集にまみえたのは、まだ二年前だった。その時万葉調の歌が多く見られたので、何時かは具に読ませてもらおうと思いながら今日に至っていた。そこへ、編集委員の方から、「八月号の作歌徒然を・・・」とのお誘いをうけた。何事もチャンス。「あめつちのままなるひとつみち」を、伊藤生更先生より一世紀半前に踏んだ郷土の歌人の足跡を、「道芝の露にぬれつつ」会員の皆様と共に辿ってみようと心新たにした次第である。広海なる先覚を、百首ほどの歌を通して、追々ご紹介するつもりだが、一応の予備知識として、「山梨百科事典」(1972年 山日)の「早川漫々」の項を引用しておこう。
『一七七五(安永四)〜一八三〇(文政一三)小原村(山梨市)に生まる。石牙の長子で、広海、黄楊園の雅号を用う。賀川満貞に医学を学び、後に長崎におもむいて蘭法医学をも学んだ。国学、和歌においても学名が高く「増補歌文要語」「新撰組歌集」などの著書があり、俳諧では化政期、峡東俳壇の指導者として黄楊門流を形成した。
・おのれのみ 千歳の松の 深緑 さても昔の 春や恋しき
・草刈の 鎌にかられな 女郎花 <中川武秀> 』
なお、この覚書のテキストは、大正十一年発行の安田登編著「早川漫々伝」の合冊付録「広海歌集」である。本書は、現在、山梨県立図書館と安田家で見られるだけの極めて貴重な郷土文学資料の一つとなっている。「広海歌集」は、文政十二年頃、広海自身が纏めたものらしく、長歌三十五、短歌六八九首が収められている。
このたび、安田道子様には、この本の全文コピーを快くお許し頂きました。その格別の御厚情にお報いしたいと思っています。
会員の皆様のご指導ご支援をお願いします。
三四、降りうつむゆきのとひらを明け方の空に先つ見る春の静けさ
広海の「我宅」は、小原東、八日市場の南西に今も健存している。市場の通りに面して武家作りの長屋門があるが、それがこの歌の「とひら」であろう。「とひらをあけ」の掛けに目をつむれば、「明け方の空に先ず見る」は実にいい。
文化元年、雪の立春の早朝、懐かしい我が家の大門を見上げて、心静かにいる多善(医者として里正として用いた世襲の通称)。六十路に入っていた母も、その後ろにいたに違いない。
三五、わが宿の梅咲きたりと告げやりし昔おもほゆ友なしにして
「三枝守瓶一周忌」。三枝家は、勝沼大善寺の創建当時からの大檀那として知られる大豪族で、かつては峡東一円を領有していた。例の「長寛勘文」により、その領地は、広海の始祖安田義定に引き継がれた。その守寸、義定の末裔として、守瓶、広海の交友もまた浅からぬものがあったに相違ない。しかし、その友の葬儀にも、ひなのそきへにいて、参ずることが出来なかったのだ。
この一首、初句の「宿」を、「家」か「庭」とすれば、今の歌誌にも通用しそうだ。長崎留学の頃から、肩の力が抜けた分、変化球が多くなった広海であるが、この歌は素直に共感できる好作である。
三六、ゆたかなる春にはあへり青柳たるるめぐみをしたはざらめや
題詞「小島蕉園君のもとにて」
文化二年から三年間の田安領の代官が蕉園である。山梨の郷土史は、こぞって、【太升騒動のしこりを解き、産業を奨励し、領民から慕われた名代官だった。】と記している。その『蕉園伝』には「初めて甲州に入るや、先づ漫々を呼び風俗人情を問いたり。」とある。以下その日の様子を要約すれば『「俳句や和歌や国学を教えることにより田畑を耕すことを奨励したらどうか」と問うと、漫々は「一竹二杉三桜四五九うまいが八珍果」と短冊にしたためて示した。一竹とは西保の魔除け竹、二杉とは矢立ての杉と橋立ての杉、三桜とは岩手の大桜と金山の糸桜と恵林寺の両袖桜だと言う。また、八珍果とは「ぶどうもも、くりかきくるみ、なしざくろ、りんごとこれぞ甲斐八珍果」と答えた。米や麦を作ることもだが、この地の名物を世に出したり、土地に合った特産物を奨励することを進言したのだ。蕉園は大いに我が意を得て、抱一上人の亀の図の幅を贈り、その後の友交を誓った。』といったぐあいである。
蕉園は、また、その年に、「太升騒動」の関係者の赦免も断行している。広海の父石牙も、その時赦免され、改めて清白寺に埋葬されたのである。
この歌は、そんな代官に対する感謝と信頼の心が素直に込められていて好感が持てる。
ところで、「徘徊をすれば田畑は草丸よ漫々も食わで内は嵐外」
という狂歌が当時もてはやされたという。化政期の甲斐俳諧三哲をうまく詠みこんだ歌として、よく知られた話だが、「米麦より特産の果物を」といふ漫々の進言をも、巧みにもじっていることもその人気を呼んだ原因だったに違いない。今の果樹王国峡東の基は漫々と蕉園にあったと言っては言い過ぎだろうか。
三七、うしうまの手綱とらさる海に居て たらひつしかもひとりいぬ船
「十二支をよめる物の名」と題した一首。甲斐にこもることに決した広海、時にはこんなことば遊びにも興じて、甲斐のうたよみたちを感心させたのであろう。
三八、世の塵にまじはる水の淀めるを下にこれりと人や見るらん
題詞に「五十槻の大人のもとに久しうせうそくも聞こえざりしに、今はおぼつかなくやおはすらんなど、せうそくつかはしけるついでに」とある。
四句の「下にこれり」が≪下が濁っている≫と≪下に凝ってしまった≫の二つに掛けていることは誰にも分かるだろう。後者はさらに≪京から遥かに下った甲斐に籠ってしまった≫と≪万葉の道から下がって古今ばりの歌に現をぬかしている≫という自己批判の吐露と受け取れる。そんな述懐も古今ばりで詠むようになっていた広海。
荒木田久老は、この歌を読んだかどうか。文化元年八月十四日に他界していたのだ。
なお、この歌は、賀茂真淵の『歌意考』の「塵のすわれる鏡の影雲らぬなく、芥に交れる花の芯の汚しからぬなく、さても曇り濁りにし後の人の心もて、とめ撰びていひつづけしが汚からじや。」の歌論を踏まえての述懐だろう。真淵は、この塵(虚飾)と濁り(邪心)を払う道は、上代の歌や文化をとりなしてみることにあると続けている。
三九、底ひなき教へもがもな真清水の清き心を汲みもしるがに
「真文がもの学びせんといふを、さざなみの屋に頼みつかはすとて」といふ題詞の、「さざなみの屋」とは、村田春海門の英才清水浜臣のことで、賀茂真淵からみれば、広海と同じ孫弟子に当たる。浜臣は、斉藤茂吉が『近世歌人評伝』(この単行本は、学生時代に、鰍沢の雨宮精彦先生から頂いたものである。当時は、近世の歌は読むのも面倒だと思っていたので、以来本棚の奥に眠らせていた。しかし、この覚書を始めてから、一番お世話になっている。)の中で、「真淵門に加藤千陰、村田春海がゐたが、これは万葉調に行かずに、万葉の中の調子のなだらかな歌、それに古今、新古今を取り入れて麗しい歌をつくった。・・・この二人の流派は真淵没後、一つの勢力をなし、相当の歌人を出した。江戸調といふのは即ちそれである。春海門からは、清水浜臣、小山田与清らがでた。」と触れている。
浜臣は江戸で医を業としていたが、その頃は、不忍池の畔に「さざなみの屋」を構えて、水戸藩邸などに出入りしていた。享和二年に真淵の歌集の草稿を入手し、その出版に際して春海門の中枢に食い込んだとも言われている。
その浜臣に、当時の甲斐の国学の名士、宣長門十哲の萩原元克の甥を紹介したという事実は、広海の歌の急転換の謎を解いてくれる鍵になろう。
この歌が、一応の五七調の形を持ちながら、掛け詞や縁語の「わざ」を流しこんでいるのも、江戸調への感染の症状と見られよう。
四〇、豊かなる春にはあへり青柳たるる恵みをしたはざらめや
題詞「小島蕉園君のもとにて」
文化二年から三年間の田安領の代官が蕉園である。山梨の郷土史は、こぞって、{太升騒動のしこりを解き、産業を奨励し、領民から慕われた名代官だった。}と記している。
この歌の鑑賞にも役立つと思われるので、大正七年に文部省から刊行された『小島蕉園伝』の「第五、甲州での事績」の四「産業のすすめ」を、原文のまま引用する。
〔蕉園が始めて甲州に着いた頃、早川漫々を代官所に招いて地方の人情を尋ね、其の後も詩歌の曾にことよせて毎度漫々を招いた。漫々は俳名で、本名は多善といった。伊勢の荒木田久老を師として國學や和歌を學び、廣海歌集という家集もある。又長崎へいって蘭法の醫術を修め郷里で開業して居た。或る時酒の席で蕉園が漫々にいふには「君が和歌や俳諧を教へたり國學を唱へたりして世人を指導するのは勿論善いには善いが、句を作るより田を作れといふ諺もあるから、産業を興すやうになっても善いではないか。」漫々は聞き終って居すまひを直し「人には向不向きといふことがございます。けれども私どもでも産業の役に立たない譯のものではございますまい。」といってすぐ様、【一竹二杉三さくら四五九うまいが甲斐八珍果】と書いて「この狂歌が廣がったらば、きっと産業も興りませう。」といった。一竹とは西保小田山の魔除竹、二杉とは矢立杉と橋立杉、三櫻といふのは岩手の大櫻、金山の糸櫻、恵林寺の両袖櫻で、いづれも名物であった。漫々は是等の名物に並べて、果物の栽培を奨勵しようといふので、葡萄と梨と桃と柿と栗と林檎と柘榴と胡桃と以上八つを八珍果と數へたのであった。蕉園は大さう喜んで、抱一上人の龜の圖の幅を贈って、尚も語り続けた。處が漫々の考の通り人民が奮発して果物の栽培に勵むやうになり、名産になったといふことである。〕
この歌は、抱一上人の龜の図への返礼歌と考えられるが、調べも豊かで、蕉園に対する信頼と親愛の情が爽やかだ。
なお、引用文に見える詩歌の会での歌には、次の様な歌が残されている。
「春山といふことを灰の韻を得て」
四一、春ながら嵐は吹き来山の間に時得て開ける桜花哀れ
「恵林寺晩鐘を庚の韻にて歌よめとあれば」
四二、ふたもとの袖ふる桜ふる寺の入あひの鐘に春や暮れ行く
四一では来、開、哀とアイの、
四二では桜、鐘、行とオウの韻字が、求めに応じて、各二・四・五句に見事に押かれている。
蕉園は漢詩の雅号で、本名は源一といい、父は狂歌師の唐衣橘州だった。ついでながら、蕉園と広海が肝胆相照らした代官屋敷は、故中村光江さんの忘れがたみ小田多恵、鷹野賢美、中澤なが子さん姉妹と、故堀内かをる先生の実家である山梨市一町田中の中村邸のあたりにあったと目されている。
四三、野辺ゆかば薫つままし衣にすらまし
山ゆかば山桜花山土産にせん
「野逍遥」と題した集中ただ一つの施頭歌である。
この施頭歌を読むと、万葉集四〇九四の『海ゆかば水漬く屍山ゆかば草むす屍・・』が思い出されるのは私だけだろうか。ともあれ、自然との共存、人命の尊重、平和などと言う今の政治思想より、もっと深いものがありそうである。
四四、大和には神こそいませ神風の波立たぬとに漕ぎかへれこそ
題詞に「文化四年の秋よめる」とある。ロシアが今騒がれている北方四島を侵した時の歌だ。師久老の三周忌も重なってか、皇学の徒広海の面目躍如たるものがある。歌柄も久しぶりに、ひたぶりで直く、万葉調である。しかし、結句が「撃ちてし止まん」で無いところには、前の施頭歌にも見えた人命尊重の仁医多善の人柄が、一層偲ばれよう。
この年、広海は里正を辞している。当時の村の古文書には『この度、医業専念につき休役仕る旨、一同承知いたし候。数代の後たりとも御勝手次第何時にても御帰役成るべく候事、村中一同掛合を遂げ候間(以下略)』と見える。当時の安田(早川)家に対する村人の信頼が伺える文書であろう。
また、この頃、広海は村の子弟の為に、読本と習字の塾を開いている。この塾はやがて、屋敷続きの安田山西願寺の寺子屋となり、明治十四年には、現在の日下部小学校の前身である日下部学校となっている。この塾について、当時の雨宮六園は『先生常に心を風教に用ふ。村の子弟を集め書を講じ、字を授く。人その徳に懐き淳風大いに行はる』と記している。
四五、里遠き窓の灯見え初めて山の下道日は暮れにけり
題「山路夕」。まさに単純、明快な写生歌といえよう。
(1)入つ日の光映えたる幾山や低きはすでに陰となりにき
(2)川むかひの山ふところや夕されば灯は点りたり家あるらしも
(3)春の夜の狭霧いざよふ山もとに灯見ゆるは人住めるらし
(4)寝しづまる里の灯皆消えて天の川白し竹藪の上に
は、(1)伊藤生更、(2)相馬御風、(3)三井甲之、(4)正岡子規の歌であるが、それらに比べて、少しも古さは感じられないだろう。というより(2)を捻くった(3)よりは、ずっと新鮮で、(1)(4)に近い静かで深遠な境地に誘われる。
四六、忘れめやあにわすれめや妹と背の睦まじみする中のたぬしさ
「錦絵といふを見て」と題詞があるが、この年、広海は、黒戸奈神社の神主今沢信濃守の娘御を迎えている。
万葉集九五の「やすみこえたり」の歓喜が思い起こされよう。
里正は辞したものの、代官のブレーンとして、医者として、俳諧・和歌の師匠として、その名声は甲斐の山並みを越えるものがあったという広海の、稚拙とも見える天真爛漫な一面が伺える一首として、あにわすれめや・・・。
四六、松もこの初子のけふを待ちつけて千代の例の色はみすらん
四七、色かへぬ軒端の松ぞたのもしき千代ふる宿と人の見るべく
題「子曰」。長男広沖誕生の日は、くしくも初子の日と重なったようだ。父親になった喜びと、我が子の行く末を思う気持ちが、屋敷の松に託されて、率直に表現されている。この松は今でも青々と茂り、八日市場の通り越しに、広海ならぬ漫々の「夕涼み生れかはらば何になる」の句碑を眺め下ろしている。
さて、広沖という命名には、
五の歌で見た「いざこども沖べの月に船漕ぎ出でな」の願が籠っているのであろう。広沖は長じて、多善を襲名し田安代官所の法橋を勤める一方、雷石と号して峡中俳諧の雄となっている。また、祖父の永(石牙)が丑年生だったため早川と名乗っていた姓を、嘉永五年、代官所の許しを得て、義定以来の安田に復している。漫々の「夕涼み」の句碑もまた、この雷石が立てたものである。
なお、広沖誕生の文化五年に、広海は、父石牙の掲げた「落葉門」の看板を「黄楊門」と一新している。
四八、春秋に鶴の郡をありかよひ千歳もへませこの甲斐が根に
四九、塩の山さしでの磯に寄る波のいやしくしくに言葉通はな
題詞「小島の君の江戸に帰りたまふをりよみて奉る」
甲斐の都留は、「かひがねの山さとみればあしたづのいのちをもたる人ぞすみける」(紀貫之)や「甲斐の国鶴の郡の千歳をば君がためにと思ふなるべし」(藤原道長)の歌でも伺える不老長寿の郡里として、「しほのやまさしでのいそにすむ千鳥君がみよをば八千代とぞなく」(読人しらず)「友千鳥差出の磯や暮れぬらむ鶴の郡に鳴きわたる声」(宗祇)の差出の磯と一帯に、都人の憧れの賀歌の歌枕であった。
広海も、この覚書の(その七)でも紹介したように、自らを「甲斐国差出磯早川漫々」と名乗り、賀歌の歌名所に生きることを、この上ない誇りとしていたようである。
その誇りもあってか、
四八、
四九の歌は、自然で、蕉園の長寿と、これからの友好を願う心情が滲んでいる。鶴の郡・差出の磯を詠み込んだ歌は、古今集以後枚挙に暇がないほどであったが、この二首は、実感があり、他に抜きん出て見える。
五十、石森の岡の黄葉けふ見れば君待ちわびて散りぞまがへる
「小島の君に奉る歌 君は江戸にあり」と題詞がある。
四八、
四九にも増してひたぶりで好感が持てる歌だ。蕉園に寄せる思いの純粋さが偲ばれよう。
かつて、二人は、例の詩歌の会を石森山に移して紅葉狩を楽しみながら、産業の奨励のことや、文学のことを語り合ったのだろう。
ところで、石森山は現在、その山の上の山梨岡神社が県の文化財に指定されているが、この広海の歌碑も欲しいものだ。果樹王国山梨の基ともいえる「八珍果」の事も裏に刻して。
差出の磯に続く万力林に立ち並ぶ万葉歌碑よりは、ずっと意味があり、そこに住む人々の誇りにもなるはずだ。
文化六年、『ふるしも』(父石牙の二十三回忌追善俳諧集)が刊行されている。広海短歌の背景と、俳人としての交友の広さを知ってもらうため、その内容をかいつまんで紹介したい。
第一部は、俳諧連歌五十韻(初折十六句、二と三の折各十六句、名残二句)で、初表の四句と名残の二句は次の様である。
軒の松けふの寒さをいただきぬ 漫々
濡れても雪の跡はかくれず 槌村
情けある人と柄杓を削りけり 草丸
折敷の前に足をかかえて 岳中
冬の園みなみな心すましけり 琴雪
塩の山への木の葉あつめて 山甫
第二部は、甲斐の国の外から寄せられた発句(現在の俳句)で、京の蒼

「朝の柳先すこし見ておきにけり」を筆頭にして、信濃の素檗の「名月を覚えたまでの籠りかな」の結びまで津の国、河内、吉備、安芸、播磨、長門、土佐、筑前、豊前、豊後、薩摩、肥前、肥後、但馬、丹波、日向、若狭、郡山、近江、伊勢、紀の国、飛騨、尾張、越後、越中、武蔵、下総、陸奥、出羽、遠江、信濃の俳人の百三十三句が編まれている。
第三部は、「親しきばかり信濃の奥津城に参りて、かしこの人々とともに、昔を偲ぶ。」と前書きがある。所謂半歌仙式で、石牙居士の信濃吟の、「温泉の山へ来て誘ひけり初桜」を立句として、漫々の「思へば高きけふの陽炎」をもって脇句起こしとしている。名残の六句は次の通り。
珍しや七夕笹の薄月夜 漫々
今朝の合羽にたたむ萩の香 素兄
露霜に木曽の博打の広がりて 酔々
天狗まつりの酒にあきぬる 一貞
一昔噂の残る花も咲き いづみ
汲み取る水に春の風吹く 鳰見
「挙句」の果ての蛇足だが、追悼歌や挽歌と言われる短歌より俳諧の方が発想も自在で明るいようだ。
次に第四部は、
何時からか垣に穴おく夏の月 可都里
身動きもせぬ人のはや衣替へ 嵐外
なしなしの竹に日暮れて雪の国 草丸 など
百三十六人の甲斐の俳人の発句が夫々一句ずつ綴られている。峡東の各村を初め、上吉田、猿橋、教来石、宮原、酒折、甲府など、当時の甲斐俳人を知る好資料でもある。
(本稿は、山梨市文化財審議委員の古屋義博氏所蔵の木版本に依った。古屋氏の先祖は黄楊門の門人であったとのことで、氏ご自身も市の文協俳句部の選者をなさっておられる方である。)
五十、わが宿の梅咲きたりと告げやりし昔おもほゆ友なしにして
題「三枝守瓶一周忌」。三枝家は、勝沼大善寺の創建当時からの大檀那として知られる大豪族で、かつては峡東一円を領有していた。例の「長寛勘文」により、その領地は、広海の始祖安田義定に引き継がれた。その守政、、義定の末裔として、守瓶、広海の交友もまた浅からぬものがあったに相違ない。
この一首、初句の「宿」を、「家」か「庭」とすれば、今の歌誌にも立派に通用しそうだ。
守瓶の歌は、甲州文庫に次の二首が蔵されている。
(1)湖上花(懐紙)
桜花比良の山風吹なべにつり江の船の花になりけり
(2)卯の花(短冊)
くれぬ間は雪に名たてて夜はまた月影たたす庭の卯の花
ところで、『山梨百科事典』等には、三枝守瓶は辻保順という名で出ている。
その姓と雅号を寄せると辻守瓶となる。その中の守を取ると、辻瓶である。「初めは君のペンネイムの瓶といふ訓み方も意味も分からなかった。御先祖が代々医者で、名字帯刀の家柄で、江戸時代の辻保順が三枝守瓶と号し、本居宣長と深交があった事など後になって『甲斐国志』で知った。」と『辻瓶とその歌』(昭和三十九年)で若尾隣平先生が回顧されておられる辻瓶先生なのである。
伊藤生更先生の主治医でもあった辻瓶(守昌)先生は、昭和三十一年の春、他界されてしまわれたが、その時、生更先生は、
思出となりてしまへり年どしに君がたまひしからすみのこと
と詠じられた。守瓶を追慕する広海の歌と同じ思いに誘われるのは私だけだろうか。
瓶先生の七六、四十二回忌には五月遅れてしまいましたが、隣平先生が、「誰が何と言っても生更門下の異彩である。」と言われた[辻瓶の歌]を、誌面の許す限り美知思波にラブコールさせていただきます。広海殿も守瓶殿も、とくと御覧ぜよ。
八ヶ嶺はあらはなりけり冬枯の巨摩野よぎりてわが車ゆく
風さわぐ朝明けの空白樺の高き一樹の幹ばかり見ゆ
松の丘一つを越して波の音とどろと響く宿に来にけり
大沼の岸の睡蓮花咲きて今しみじみと雨ふりてをり
サシウべ冠りてわれら迎へたるイカンマトクの眼は碧かりき
星条旗掲げし宿のベランダに髪黒きをみな立ちて居たりき
朝まだき改札口に荷を負ひておのづから親しみあへる一群
電灯を消さむと立てる半身のブラウスがあり壁に向きて寝る
峠茶屋の柱に吊す熊の皮君ふれてみるわれふれてみる
君の顔少しくやせて髭生えたり今日は食ったと朗らかに笑ふ
弔問の人ら去りたる座敷にて座布団ばかりが並びゐるなり
焼鳥屋の屋台に息子と立寄れば息子に主婦が挨拶をせり
妻と共に一つの床に入りしがあたたかしといひて眠りぬ
ミュンヘンの茂吉の宿に署名せり螺旋階段われものぼりて
盗られし鞄になほもこだはり吾はゐる窓に見え来る菜の花畑
五一、いまつくるこの新室の名におへる苔こそむさめ千代に八千代に
題詞「竹下草丸が苔室といへる庵を作りけるに、その室寿の歌を人々よめりけるをりよめる」
「君が代」の本歌となった『古今集』巻第七の冒頭歌を踏まえた優雅な賀歌だ。草丸は、当時の甲斐俳諧三傑の一人で、広海ならぬ漫々の一番弟子として知られている。俳諧の庵の新築祝いに人々が和歌を詠んだというのは不向きの感もあるだろうが、草丸の日記『文政十亥年見聞書付』には
・松風は昔の琴の音ぞする二十五の厄を吹きはらふらん
・病むほどに倒れるほどに呑まばやな世に類ひなき意思のあるもの
という自作の歌も記されている。琴と片歌も師匠格であった様だ。
ところで、広海は、俳諧の漫々としての方が有名なので、今日は、その漫々を、『甲州俳家列伝』(大正年間刊・松本守拙)の一部を引用して紹介しておこう。
「古くより風雅の道に携はり、子々孫々これを廃せずして当代に大名を博し、広く門戸を張りて俳家の盛を成せるもの、峡中に、日下部村の黄楊門に過る者無からふ。(中略)名門の家名将を出すの習で、石牙は自己より更に大なる俳人漫々を出した。漫々は父と同じく通称を多善と称し黄楊門、六勝園と号し、歌名を広海と呼び伊勢の神官荒木田久老の門葉なりしが、俳諧に於いても、医業に於いても、父の石牙より、勝れて出色の誉があった。当時の名人上手といはれた俳人とは友好浅からず、殊に京の蒼

、梅室とは最も交はりが深かった。漫々が俳家としていかなる位置に立ちて、いかに名声を博せしかは、「俳諧をすれば田畑は草丸よ漫々も食はで内は嵐外」といふ俚謡が漫々の位置と名声とを語って居る。当時峡中に於いて俳諧の傑物として推奨されたのは、この草丸、漫々、嵐外の三傑であったのだ。」また、『漫々門人帳』には、六百人を越す名前が残されているとのことだ。
その漫々が、俳句と和歌について述べた『黄楊門一家言』の一部を、この辺で紹介しておこう。(甲州文庫・写本)
「俳諧は僅か十七音をもて一句とすれば、俳意異なる所あれど、その本情は歌に等し。歌は今の世には詞乱れて、常の詞と歌の詞と別のものになりきたれば、別に学ばざれば言ひ難く、学ぶことのいと多く難しけれど、俳諧は、俗談を交へて格別もの学びなくとも、先ず入りやすく、田夫野人に風情を学ばしめる道なり。本情は、句中に自づから備はるものなれば、ことわりいふは理屈といふものなり。本情をよく見極めて心中に含みて句を作るべし。本情は伝へて知るべきにあらず、自ら見出すが修行なり。」
「本情」にかかわる主張は、子規の「写生」、茂吉の「実相観入」、生更の「客観即主義」「自己露出でない個性顕現」などの作歌道の先駆だども言えよう。
また、歌の用語の事であるが、口語か文語か、新仮名か旧仮名か等、論の絶えない現在より、当時はもっと歌の詞は格別なものとされ、歌そのものも格別な人々の占有物にされていたと考えられる。この意識が、うたを一層、学識や才智を示す具に落としたのだろうが、このいわば士の文学だった歌は、士への肖りの具でもあり、何かにつけて歌を所望する田夫野人も少なくなかったようだ。広海の場合も、俳諧の子弟や村人から所望されて詠んだ歌がこの歌の他にも
五二、千代かけて昔植ゑにし庭の菊けふおく露のふかくもあるかな
五三、夜もすがら松も柏もかきたれて降るやふるやの軒の白雪
五四、ふきおくるささの葉末の音信もそよや嬉しきけふの夕風
などの祝歌、礼歌として見える。
五三の古屋家には、そうした広海の歌の軸や短冊が今でも大事に保存されている。
五五、朝宵にいむかひをりて山彦のこたふる山にけふは来にけり
「文化九年九月四日登東山」とある長歌の反歌。
もし、広海の歌から好きな歌を十首選べと言われたら、この歌も入るだろう。
東山とは、今は亡き友、三枝守瓶ゆかりの大善寺のある柏尾山であろう。朝日や、満月の昇るのを待ちかねて仰いだ山だ。幼い頃から、時には大声で呼びかけ、親しんで来た山だ。その山頂に、今、紛れもなく立っているのだ。自然との一体感。単純素朴な表現を範としたい。
五六、今宵しも心は空に待ちぬれど池の水面の月こそみれ
五七、魚をとる池の水面に澄む月の澄むとはすれど影ぞみだるる
題詞「文化十年八月十五日、喬長の家に月見しけるをり」
喬長は、「日下部町誌」(昭和二十七年刊)にも、「漫々は歌もよくしたが、その頃、下井尻に依田喬長などがあって和歌の道に通じていた。しかし、俳諧の世界程には振るわなかった。」とその名がみえる。宣長門で「甲斐叢記」には、次の三首が収録されている。
・さそはればいざ見に行かん桜花名にふる寺のきさらぎの空
・甲斐がねの雪はきゆれど朝みどり霞みわたれる野辺の夕暮れ
・笛吹の川沿ひ柳打ちなびき音取りながるる岸の春風
さて、その夜の月見歌会に、依田氏は、鯉料理など出して嚮したのだろう。しかし、広海の心には「すむとはすれど乱るる」ものがあったのだ。
「天雲のたちへだつとも難波江に馴れ見し月の影は忘れじ(三二)」
五八、今宵しも眺め果つべし秋の月秋立ちしより待ちてしものを
と、中秋の名月は、広海のプライドであり、師久老の面影なのだ。淡々とした写生に、かえって深い感慨が、しみじみと心に伝わって来る二首だ。
ちなみに、「瓶に射す藤の花房短ければ畳の上に届かざりけり」と詠んだ子規は、これから凡そ百年後に生まれている。
五九、庭もせに栄ゆく松の常盤なす常かくてこそ君はいまさめ
六〇、吾背子が手馴れの琴にかよへれか友松風もことにしありける
五九の「庭も狭に」の描写が「常欺くてこそ君はいまさめ」の感慨を動かぬものにしている。
題詞「詠小出好健氏庭上松一首短歌二首」。
長歌は「いづくにか出でこし種ぞ、いづくゆか生ひ出でし物ぞ」と歌い起こし、近村に比類のない松の様子と、その松の下での、琴と笛の演奏の様子が、他の広海長歌のように、形象性確かに描写されている。好健氏(歌名好古)は、折に触れて広海らを招いた模様で、この少し後にも
六一、君にこそかはらぬ色はならひけめ千代にともなふ軒の呉竹
六二、笛竹のよるは花とも見えなくに音にさそはれて雪や散るらん
などがみえる。
六一、
六二には「好古四十賀」とあるので、広海とほぼ同年輩の風流人だったのだろう。『日川村史』(昭和三十四年刊)は「下栗原医師歌人」として、清水浜臣の『甲斐日記』の一節を引用して解説に代えている。
蛇足ながら、『山梨百科事典』を始めとして、山梨県の郷土史は、外来の有名人の紹介には格段のスペースをさきながら、郷土の人には冷たく、好古や喬長の例のように、その作品を知る方途が極めて困難なのはさびしい。そういう中にあって、功刀亀内の「甲州文庫」と、大森快庵の「甲斐叢記」は、そのさびしさをかなりやわらげてくれる存在だ。
六三、解きさけし紐かとみえて咲く花に色なる露や結び置くらん
題詞「文化十三年薩摩の国芦屋といへるもの仙人売といふ草の種送りこしけるが、花咲きけるを」
仙人売とは、精力剤用の薬草だろうか。なかなか艶っぽい歌だ。芦屋某は、長崎留学時代の友人なのだろう。薬に関係した歌は、この他に、蓬莱山(富士)の不老不死の薬伝説を踏まえた
六四、あふくその齢ぞ高き不二の根に老いせぬ薬猶もとめてよ
「栄名井聰翁八十の賀」がある。
医者としての広海については、これまでも触れて来たが、この辺で纏めて紹介しておこう。以下は大正五年刊の『東山梨郡誌』による。「医は賀川子全に従ひて産科を学び、光格天皇の皇子御降誕の時、師とともに恩賜を拜す。尚大阪の吉益掃部に内科を修め、後長崎に到りて吉雄氏に蘭法外科と薬学を学びたるを以て、当時の儕輩に卓出したるを知るべし。その調剤に成れる相応丸、バジリ膏、薫薬は、今尚家伝薬として世に行はる。門弟多きが中に、信州の岡村寿軒、山浦通庶、相州の岩崎順道等最も著はる。漫々曾て文を作る。曰く[(以下漢文を読み下し文に変える)諺に曰く、病は気より生ずと。けだし、気充つれば病無く、気耗つれば病生ず。良医は、気を養ふを以て先とし、未だ曾て初めに薬投せざるなり。庸医はこれを知らず。猥に薬を与えて病を治めんと欲す。唯に功を奏せざるのむならず病益々重きを加ふ。]と。」ああ、現代は庸医のみか。
ところで、『甲斐叢記』には聰翁の次の一首が収録されている。
・浅からず仰ぎまつらん千歳をもへみの御牧の神の宮居を
しかし、聰翁は、片歌の普及者でもあったようだ。片歌は、例の酒折宮の答歌「かがなべて夜にはここの夜日には十日を」に因んで建部綾足・鯨丸が唱道した五・七・五、五・七・七、五・五・五、七・七の四種の形態による俳諧の一つの枝形といえるものである。寛政から文化年間、甲斐の国でも大いに持て囃され、志村天目編の
『片歌当座探題』『縮地の杖』には、次のような作品が見える。
永き日や永き日とても何もせず 志村天目
夜もしるし卯の花咲ける垣つべは 萩原元克
いざ我も千代こもりぬのあやめ引なん 飯田正房
夏の月を秋の夜長に見たくなり 辻守瓶
たちかへりふりかかへりみき袖の浦波 栄名井聰翁
なれつつもさぶし夜な夜なたたく水鶏は 小野管満
尚、聰翁は、五・七・七の片歌を特に『三句和歌』として提唱し、陸奥までも遊説したと言う。
六五、行く末の御代は万代玉鉾のこの古道の跡は絶えせじ
「あがたゐ翁五十年忌に、詠鐘礼」と題した長歌「神無月時雨の常か、いにしへを偲ぶ涙か、村時雨いたくな降りそ、白妙の我が衣では干せれども干ず」の反歌。
詠鐘礼とは、自作の和歌を、法具の手鐘でも叩きながら朗詠したのだろうか。さて、
六五の反歌、久しぶりに「古言学」の匂いが漂っている。「万たびかへりみしつつ玉鉾の道行きくらし(中略)千代までにきませよ君よ我も通わん」(万葉七九)の長歌を踏まえて、亡き賀茂真淵翁の御霊に、万葉を宗とする歌道の永遠なるを祈念しているのである。
ところで、生更三十回忌も、茂吉五十回忌も、もうすぐだ。『アララギ』という垣根が取り払われた今こそ、茂吉、生更の歩いた歌の道の跡を確かめ合い、絶えることなき精進を持ちたいものだ。郷土の先覚、広海の願いを無駄にしないためにも。
六六、けふのみと思へば春もをしけれど君が別れは殊にぞありける
「清水浜臣が、この甲斐の国に来たりて、三月三十日ばかりあすは帰らんといふに、三月尽といへる題にて歌よませけるによめる」という題詞と「春に別れ君に別るるけふの日はくれずあれなと我もおもへり」という浜臣の歌が記されている。
三九の歌で見た真文のこともあって、広海は、浜臣を甲斐に招いたようだ。その時の様子は、浜臣の『甲斐日記』に詳しい。『甲斐日記』は『甲斐志料集成』に収められていて手軽に読むことができるものだが、三月尽の前後をちょっと見てみよう。
文化十五年(文政元年)三月二十七日、御坂峠を越えた浜臣は一宮の浅間神社を経て、先ず田中の真文を尋ねた。翌日は、「まづ東小原なる早川広海をとふ。久老神主にしたがひて古言まなびせしぬしなり」一行八人で、差出磯、窪八幡、七彦神社、恵林寺、向岳寺を経て、田中の加賀見真文宅に泊まる。二十九日は「けふは、三月尽なれば、やがてそのこころをまどゐの題とす。栗原村なる小出好古、河野通古、井尻村なる依田喬長、小原村なる早川広海、土塚村なる刑部宣風、吉田よりしたひきたれる刑部国秀、小沢啓行、真文がとなりなる佐藤建雄、無端といへる老人ら、これかれまどゐして、日一日歌よみ物がたりし、筆とりくらしつ」と。江戸文化人サロンの甲州篇ともいえよう。当時の峡東の歌人(歌が残されていないは心残りだが)と、当時の名所が伺えて興味のある資料だ。
ついでながら、籠坂峠から御坂峠の間には、小林義樹、菊田広道、小沢永、泰裕賢、刑部國秀などの名が記されている。國秀は浅間神社の神主で、かつて賀茂秀鷹が詠んだ「倭武の御子の尊の富士の根ををろがみませし大塚ぞ是」の歌碑を、この大塚に建てたいと相談したところ、浜臣は「昔の跡懐かしくたどりきぬおほつかなしと思ひながらも」という物名歌で再考を促している。
この「覚束無し」という物の見方は
(1)差出の磯「さし出の磯は早く契沖のわきまへおかれ、雨岡のにもくはしくいへれば、今さらいふべきにもあらねど、秀鷹県主の『富士日記』には、「このあたり昔は湖にて、それにさし出でし磯なりしにや」といはれたれどしかあらじ。契沖あさりの平家物語をひかれたるによりて、越中塩山のあたりとやいふべからん。」
磯の名の差し出ここともしられねど昔の音と聞けばゆかしも
(2)七日子「永久四年百首七夜の歌に俊頼が「君が代はななひこのかゆ七かへりいはふことばにあへざらめやは」と見えたるはこの七彦郷の米もてたきたる粥にて産やしなひ七夜の粥に用ふることなりと、おもふにそは強ひて思ひよせたる後の人のおしあてごとにや。」
音に聞く笛吹き川は天地のおのづからなる調べなりけり
(3)恵林寺「この寺の池山は夢窓国師の作りおかれたるままといへり。されど所せく見わたしなくて箱根山の麓なる長興山の庭より見ればいたくおとれり」
(4)放光寺「藤木村といふに高橋山放光寺といふ寺あり。古鐘ありて建久二年源朝臣遠江守義定のゑりつけあるよし聞きおければ、ゆき見まほしけれど、そぞろありきに春の日のもややかたぶきければ、塩山にまうづ。」
の如くである。
(5)酒折の宮「聞きしに劣りて所の様もかうかうしからず、宮居もつきつきしからず。山県といへる博士の物したる碑を立てたり。ここなるは境ひ隔りたるけにや誰とがむるとなく残りけり。花さかぬ言葉のくにをたどるまにいつかことしの春も暮れぬる」
何時の世にも、地方に来れば尊大になり、否定することが評論だと考えている自称中央人は、後を絶たないものだ。
ついでながら、浜臣が対抗意識を燃やしている秀鷹県主なる賀茂秀鷹の『富士日記』を見ると、例えば(1)の差出磯は、
「塩の山差し出の磯を見まほしみからき旅をも我はするかなとて御坂を越え、(中略)萩原元克、先づ日のたけぬうちに差出の磯のあないをし見せまいらさんとて、諸共に行きて見るに、思いしより見るは勝りていとおもしろきところなり。塩の山は十四五町ばかりへだてて向かひに見ゆ。
・いまはまた川に差し出の磯千鳥ふりし昔の音をとどめける
・うちむれてけふは差出の磯千鳥都のつとに一声もがな(好道)
・ふるさとに差出の磯のいそがずば日を重ねても語らはましを
・秋深き差出の磯の初紅葉道も忘れでまたもとへ君(茂貫) 」
こちらは賀茂県主なる京都の代表的歌人だが、賀歌の歌枕と、そこに住む人々への対応は謙虚で篤い。
脱線ついでに、もう一つ、(2)の「君が代は七日子の粥七返り祝ふことばにあへざらめやは」の歌に因む、ちょっといい話を紹介したい。
この歌は、今の山梨市七日市場の七日子神社(貢神社)に歌碑も建てられている。その拓本を玄関に飾っていた故吉井ときゑさんが、かつて『澪標』で嘆かれた通り、地元の行政からも忘れられがちではあるが、その揮毫が尾上八郎ということで、書家の訪れる事は少なくないとの事だ。
いい話というのは、安田道子さんが例の強制疎開で、安田家本宅に来られた頃、この歌碑の所在を知り、その揮毫が若き日の恩師であることに興味を持たれて、当時の氏子総代だった古老から伺ったという話である。
「昭和の初めの頃、七日子の粥のことを新聞か何かで読んだ氏子総代の人が、歌碑の建立を思い立ち、氏子の人たちと相談した結果、その文を書いた尾上芝舟先生に相談してみようということになり、歌碑の揮毫のお願いも含めて、いきなり尾上家を訪問した。先生は、その計画に心から賛同され、揮毫のことについては、本当は地元の方が書かれるのが一番良いのですが、私も御地を一度訪れたいと思っていた矢先ですから、有難くお受けしましょう。と喜んで承知してくれた。その時の手土産は枯露柿だけだったが、とても喜んで、除幕式の時も、お車代を辞退して枯露柿を所望された。」と。
この話から推すと、歌碑の裏面の撰文も極めて簡潔で、尾上氏の監修があったとも考えられる。独特の歌境を近代短歌史に加えた本物の中央大歌人らしいエピソードだ。
ところで、(5)の酒折の宮で、広海は
六七、酒をりのこの神垣に一夜寝て見つつあかさな名におふ夢山
と、次の長歌の反歌一首を残している。
「ぬば玉の夢山こそは(中略)酒折こそは村しぐれふりにし御世に、日本武神の尊の、にひばり筑波を過ぎて草枕旅寝しましし、跡所木立ちしみさび、行く水のたゆることなく今もかも神さびれたてれ。大御歌語り伝へて、うつそみの世のみやびをが、しぬびらひ愛でらくもへば、我が見てもいや高々に、いにしへ思ほゆ」夢山は生更歌碑のある夢見山の古称だ。
六八、ことのはの絶えし枕の涙にはなげきのみこそうきて流るれ
六九、露こそは消えても結べいなのめのあくるあしたにゆきし人はや
七〇、秋はものの露も時雨も思ひきやかくまで袖のぬれぬべしとは
七一、ものうかる秋の哀れも忘られてひとり悲しきこの夕べかな
題詞「河野通古がみまかりしとき 文政二年」
漫々門人帳には六百人を越す名前があったようだが、広海門人帳は、その存在さえ伝わっていない。吟行の同行者や、歌会の参加者、慶弔時の歌の詞から推し量ってみて、広海の歌の弟子は、この通古の他、小出好古、小原広藪、窪川望之、加賀見真文、飯島無端と十指に及ばない。前に見た「漫々一家言」でも知られるように、当時、和歌を嗜んだのは、「格別のもの学び」の出来た、極かぎられた階層の人々だった為でもあろう。通古は、その中でも一番の愛弟子だったようで、その年の八月の望月の歌会は、通古の家で催されたばかりだった。
さしのぼる月になだかき秋の夜は山のはさへもめづらしきかな
立ち並ぶ木の間の月のさやけさは更けゆく庭に見ゆる影かな
世をうしと思ひながらも澄む月のすめばすまるるこの宿りかな
せきいるる庭の真清水ながれてはうつろふ月の影も澄むらん
が、その時の歌である。六年前の依田邸での月と比べて、広海の本情が澄み切っていて、まさに雲がない。鈴の屋門弟の依田氏と違って、最愛の弟子の家では、広海の心も安らげたのだろう。
さて、
六八には「枕べにそひ居て」と、
六九と
七〇には「家に帰るをり」と、
七一には「またよめる」と、詞が添えられている。
医師としても、通古の枕辺からよもすがら離れられなかったのだ。
六八の「なげきのみこそうきて流るれ」に絶命を知った時の驚きと悔しさ悲しさが滲み出ている。また、
六九「いなのめのあくるあしたに」という状況描写も、万葉の「相見らくあきたらねどもいなのめのあけさりにけり船出せん妻」(二二〇二)を踏まえながら、その悲しみの深さを自ずから伝えている。
七〇、
七一も、決して誇張ではない本情の流露だ。万葉の挽歌を、より切実なものとした江戸時代の挽歌の代表作に入るべき連作だと考えられる。
七二、あはれ君あしたの野辺の露と消えて消えぬその名ぞ世々に残れる
七三、行く水も谷の厳も変はらねば名のみながるる君ぞかなしき
七四、万代に尽きぬためしも何ならず立ちなげきけん石に苔むす
七五、山川の音もとどろにますらをのをたけびしけん昔思ほゆ
「初鹿野の田野といふ所に景徳院殿の奥津城を拝む」と題詞。
この参拝は、『漫々句集』にも、「初鹿野の奥田野といふ所景徳院殿のみはかにまゐり、兼ねて我が遠祖安田十左衛門兄弟の墓にぬかづきて・鶯も鳴かぬ哀れや石の露」と見える。
遠祖十左衛門兄弟とは、広海より八代前の安田家当主、安田義泰の弟、義宗・義隆兄弟のことである。『月刊西東京』通刊百三十号の「甲斐の歴史を訪ねて」第六二回(昭和四九年七月、山寺和夫著)に依れば、長男の義泰は武田義信の衆士隊将で、義信没後、蟄居を命じられていたが、次男の義宗と三男の義隆は、勝頼隊に属しており、天正十年に、勝頼に殉じたとのことである。ついでながら長男義泰の子の泰之は、その年の十二月、徳川家康に士官し、領土を現在の小原東に安堵されている。
連作の四首、どれも万葉のますらをぶりで謙虚だ。特に「行く水も谷の厳も変はらねば」や「石ぞ苔むす」の単純化された写生が一連の作を見事に引き締めている。
ともあれ、浜臣を迎えた次の年に、所謂江戸調とは隔絶した歌が見られることは興味深い。
七七、時鳥やがて老いなむ音取川鳴く音留めよ岸のしがらみ
七八、止まず鳴く山時鳥何とてかわれにはうとき夜を重ねけん
七九、いつの夜のちぎりありてか時鳥なれていく夜を古寺の庭
八〇、暮れ近みいそぐかへさやしられけん声を惜しまず鳴く時鳥
「時鳥聞かんとて音取川のほとりの知足院に遊ぶ」と題詞がある。
音取川は、夢窓国師の作という「山おろし雪の白波ふきたてて子酉流るる笛吹の川」にも見えるように、子の方向から酉の方向に流れる川とも、琴川、鼓川の音取りをする笛吹きの川という洒落からきているともいわれる笛吹川の別称である。
七七の「音取」は、本来の「他の楽器の音を整える」と言う意味でなく、「音をキャッチする」という意味で用いているようだ。
日付はないが、前後の関係から文政四年頃の作と考えれば、広海も四十路の半ばを過ぎ「やがて老いなむ」は、自分の思い入れと見えてくる。
七八、
七九は、
八一、淀川のよどまぬ波を行く舟にいや遠さかる時鳥かな
と詠んだ、上方留学時代に対応している。
八〇には連作の結びとしての意識が見える。「声を惜しまず鳴く」は正に実相観入で、今でも個性的な表現として推奨できよう。
ところで、題詞にある知足院は、
六六でも紹介した七日子神社の南五百米程の所に位置し、境内のビャクシンは、市の天然記念物に指定されている。また、西に五百米ほどの所には、兄正恭の眠る八幡の北山が笛吹川対岸に尾根を伸している。時鳥には兄との思い出もあったのかもしれない。さらには、この連作が、韻こそ踏んではいないが、漢詩の起承転結を踏まえていることからみれば、かつての詩友小鳥蕉園への思いもあったと考えられよう。
ともあれ、積もる思いを内に秘めながら仰々しさのない広海短歌を代表する連作であろう。
八二、ねもごろに書き置く文は亡き跡の嘆きのたねと君おもひきや
「文政七申年、清水浜臣追善披書思故人」
丁度二十年前の、真文を紹介した時や、「三月尽」の歌会での浜臣に寄せた歌と比べて、正に隔世の感がする。もう、擬古ぎこも、諂いも、江戸調のカブキも、この歌には見えない。広海調の歌だ。しかし、浜臣への追善の心は真摯で深い。故人の遺したものが懇ろであればあるほど、それに接した時の故人を偲ぶ思いが痛切なのは、どうしようもない人情の真理であろう。読後も広海の本情がしみじみ残る秀歌だ。
八三 露けさはおなじ心かつくづくと昔を偲ぶ庭の穂簿
題詞は「閑庭簿、三十三回忌」だけだが、父の永(石牙)の三十三回忌であることは、間違いないだろう。
≪庭の穂簿もしっとり露に濡れている。私と同じ心で、父の在りし日を、つくづくと偲んでいるのだ。≫
父への思慕の一途さが偲ばれる物心一如の追悼秀歌である。
ところで、広海の父、石牙については前にもふれたが、ここで改めて、『漫々伝』の「漫々の父」の章からの一項と、和歌を抜粋しておこう。
「医を業とし里正を勤む。和歌俳諧を好み、落葉庵と号す。高桑闌更を友とす。闌更、来訪し、
この里の名ある紅葉のありと聞く 闌更
近くて案山子遠くては人 石牙
の唱和あり。闌更大に喜び留まること旬余。別に臨み、この庵は永く正風の道場たるべしと、杉風が画きし芭蕉翁の像を遺して去る。落葉庵の号は、伝家の宝刀の落葉に由る。」
水鳥のはらふ羽音の聞こえぬはうは毛に霜の置かぬひまかも
音すめる泉の水の涼しさは夜半にや秋をせきいれぬらん
山里はとひ来る人のそれをさへ待たぬ夕べに初雁の声
八四、日を経つつなるるいとまもあら玉の年のを長く待ちてしものを
八五、いつかはと待ちにし雪の降り来つつ訪ひ来ぬ友をいかにかと思ふ
題詞は「小原広藪たまたま本郷にかへり来しが、けふは北にけふは南にとて、いとまなく出で歩くに詠みてつかはしける」
小原広藪は、寛政十年に正恭、広海に伴って上京しているが、題詞の通り徘徊の俳諧歌人だったようだ。広藪にあてた広海の歌は、短歌七首、長歌一首に及んでいる。しかし、その全ては、、
八四、
八五のごとく、来訪を待ち、放浪を案じるものばかりだ。
清水浜臣の『甲斐日記』にも「高畑下石田のあたりより、一里ばかりゆくに、わが心ざす市川の代官の下司なる小原広養父にあひたり。いづくへおはさんとするととはれて、そこへこころざしてといふに、いかにせんおのれは東小原なる母のこの四五日おのがもとにものせしをおくりて府までゆくなりといふ。」と、その動向が記されている。浜臣とは旧知のようであるが、その来訪を知りながら浜臣を戸惑わせていることにも広藪の屈託のなさが偲ばれる。
ところで、当時の東小原には、小原を名乗る家は既に存在していなかったようだ。『文化三年小原村東分村鑑明細帳』に
「一、浪人三軒
古屋甚五兵衛、早川半左衛門、早川円橋」
と見える早川円橋は当時の広海の医師名で、古屋甚五兵衛が広藪と考えられる。『甲斐国志』に、「初名ハ古屋兵部トテ武田ノ蔵前衆ノ頭ナリ。小原丹後守ノ三男ヲ養ヒ後コレヲ甚五兵衛トイフ」とあるのがそれで甚五兵衛は世襲されていたようである。蛇足ながら、小原丹後守は、武田勝頼隊の侍大将で、田野で勝頼に殉じ、恵林寺蔵の「武田二十四将図」には、その一人として描かれている。
また、安田家に残る『諸事聞書』の写しの写し主の古屋重信が、その本名だとすると広海とは又従兄弟にあたることになる。ついでながら『諸事聞書』は、光沢寺の順了の聞き書きで、宝永二年から宝暦十一年までの甲斐内外の事件や和歌が、俳諧味豊かに書き残されている。ついでのついでだが柳沢吉保が甲斐の国を受封することになったときの歌が、この聞書では「めぐみあれや君につかへしかひかねの雪のふる道いまぞふみみん」となっている。郷土史は「恵みある君につかへし甲斐ありて雪の降る道今ぞ踏みみん」としているが、この聞書のほうが「甲斐が根」と「甲斐あり」、「雪の降る道」と「雪の古道」との懸詞に、当時の歌の好みや、才覚の吉保らしさがあり、『山梨県総合郷土研究』のグラビアの自筆短冊とも合致する。「甲斐ありて・・・踏みみん」では、語法上も変であろう。
話を広藪に戻そう。古屋重信、通称甚五兵衛の雅号が小原広藪と考えられ、祖先への思いと広海への意識も偲ばれる。
『甲斐叢記』には、次の二首が収録されている。
・ちはやぶる神のわけけん御坂路や左右口霞み春は来にけり
・音取り川棹さし下す追ひ風に曽根の堤の梅薫るなり
八六、松こそは冬をもしらねしらねども君が千歳は知るべかりけり
題詞「正冬が父の六十の賀に冬松といふことを」
賀歌とすれば、すっきりしていて好感がもてる歌だ。磯部正冬は例の「甲斐叢記」に、泉十一首、守郷十首、宗弘九首に次いで
・曇なく心ぞすめる神垣にかけし鏡の影にむかへば
・山猿の木の実を拾ふ声さへも雪に絶えたる栗原の里
のような歌が八首選ばれている。江戸末期の峡中歌壇に名の通った存在のようだ。父の年齢から推して広海晩年の門下かもしれない。
八七、おのれのみ千歳を松のふかみとりさてもむかしの春や恋しき
「五十槻大人霊祭作歌」と題した長歌のあとに、反歌とせず○じるしを付けて収録されている一首である。少し長いが、先ず長歌を紹介したい。
「植槻の五十槻の園、荒木田の我が大人、玉敷の都の内に、おしてる難波の三津に、草枕旅寝しませば、泣く子なす慕ひ参りて、あらたまの年の三年を、朝宵に仕へまつれば、いそのかみ古言をしも、つばらかに解き明かしまし、敷島の大和心を、懇に教へ導き、春花の栄ゆるとき、紅葉葉の匂へる秋、あしびきの嵐の山の、こもまくら高雄の山の、春秋に後もひ連れて、もろともに宴楽しび、友がきの多かる中に、吾をこそ召し給ひつれ、我をこそは恵み給へれ。
しかばかりとりなでたまふ、御心は背しかれども、なまよみのこの甲斐が根に、おくれゐる母し恋しみ、五百重浪たち帰り来て、はろばろに山川隔り、国離り住みにしをれば、たまづさの使ひを無みに、吹く風の便りを無みに、偲ぶらひありけるしたに、現身の世の人なれや、我が大人は天路しらすと、人言に語るを聞けば、むらぎもの心をいたみ、天かける鳥ならなくに、行きてみん由のなければ、真悲しび立ち嘆かひて、天つたふ月日へにつつ、お指祈りかき数ふれば、二十年まり三年を過ぎぬ。
今日はもよ御霊祭らす。露霜の秋の最中ぞ、ひさかたの月をしみれば、いにしへの事し偲ばゆ。秋風のうち吹くまにま、心ぐぐ涙ぐましも。年のはに葉月の月は、人皆の愛づるもの故、天の原ふりさけ見れば、いとのきて物ぞ悲しき、我ぞ悲しき。」
歌人広海の歴史が、そのまま凝縮されているような長歌だ。
始の八行、「古言まなび」の内容と、久老の教導ぶりもさることながら、「友がきの多かる中に、吾をこそ召したまひつれ、我をこそは恵みたまへれ」の対句的繰り返しには、その寵愛の深さが犇々と偲ばれ、「わが身には春ぞまたるるこれやこの杜の名におふ佐田も過ぎねば(三)暮れはつる年の行方を淀川の淀まぬ浪に任せつるかな(四)」の歌が、改めて心に響いて来る。
中の八行、「御心は背しかれど」には、「立つ雲の立ち居につけて汝をし待たん」と、表明された師久老の期待を改めて重く受け止めている広海の複雑な思いがみえる。
結びの「葉月の月、これまでも何回か触れたように、それは師の面影であり、歌人広海のプライドなのだ。終末の「天の原ふりさけ見ればいとのきて物ぞ悲しき我ぞ悲しき」は、そのまま一首にしてもよいような絶唱だ。「いとのきて」は、万葉集の「五十殿寸太薄き眉根を徒に掻かしめにつつ逢はぬ人かも(二九〇三)」が思い出される古言だ。いとのきて五十槻大人への思いが胸を衝いて来る。
ところで、
八七の短歌だが、御霊祭の祭壇に、師の「汝をし待たん」の短冊に添えて捧げたものではあるまいか。題の無い短歌はこの他に次の一首がある。
八八、甲斐が根になれるこの身は山柿の世をうみてのみ年ぞ経にける
この山柿(万葉)の歌も、
八七の歌と並べて祭壇に捧げたものだと考えられる。帰省した年に師久老に送った「よどめる水(四一)」の述懐を、改めて亡き師の霊前に捧げたものであろう。
この年(文政十年)、広海は五十三歳。師久老の天路しらせし齢に近づいていた。
八九、なからふるかひはありその蜑なれや かつくたまの深きめくみに
前書きに「文政といふ年の十まり一とせ、田安の君のおほいものまうすつかさにおはしましける時、おのれが書ける八重垣補注といへるうつし巻三巻と、年頃よみおける甲斐かねの歌百首とを、是れ書きて奉れとて、紙に表紙さへ賜はりければ、やがて書て奉りけるに、おもほえすかつけもの賜り、かしこきおほせ事からふりけるよろこひに、よみて奉りける」とある。
四〇で紹介したように、当時の峡東の大半は田安領に属していた。その代官ならぬご本家のお殿様からの直々のお達しだったのだ。戦争中折々耳にしたニュース用語で言うなら「上聞に達した」のだ。『早川漫々伝』には、「世の人是より甲斐の漫々と呼べり」と記されている。
江戸の歌人としても著名な田安宗武の後継者「田安の君」は、小島蕉園か清水浜臣あたりから「甲斐にも広海(漫々)という歌人がいる」と知らされていたのだろう。
なお『八重垣補注』は当時の和歌入門書としてベストセラーだったという有賀長伯の『和歌八重垣』の誤りを数百語にわたって正したもので、田安印の押されたそれが、香川県さぬき市の多加神社に所蔵されているとのことである。
また「甲斐かねの歌百首」は不明だが、
九十、甲斐かねの峯の秋風寒からし 空に澄みぬるふしの白雪
もその中の一首だったのであろう。
九一、ゑがくとも何かおよはん菊の花 色さへ香さへあかぬ物ゆゑ
九二、流水にうかへるかけを波人は 菊の千とせにあえて住めり
九三、むらむらに匂へる花の香に馴れて 菊の千とせを我物にせむ
九四、しくれの雨まなくそ降りそ菊の花 あたら色香そ日数ふりにし
九五、野に山に錦おりなす時そとて あやに匂へる菊の千くさの
九六、君が代の千世をしるてふ花なれば あくまで菊の露にぬれにき
九七、くれはとりあやしき迄に香にふれむ 御世も千代の菊にあゆへく
前書きに「恵林寺の菊見にまかりて、七首の歌の上下に、文字を置きてよめる」とある。これも座興の一つだろうが、連作としての構成にも、並々ならぬ広海の力量がうかがえよう。
九八、我が宿の垣の山吹咲きにけり返り見しつつ行くはたが子ぞ
九九、命こそたのみなりけりうき時はけふを限りと嘆きせしかど
一〇〇、閨のうちにならす扇の音止みぬ夢路やいかに涼しかるらん
一〇一、さ夜更けて叩く水鶏の声聞けば見果てぬ夢も嬉しかりけり
一〇二、嵐吹く秋野の原に来てみれば薄は花にあらはれにけり
一〇三、宵の間の一むら時雨吹き過ぎてひとり冴え行く山の端の月
文政十二年ごろの作と思われるものの中から七首選んで見た。構えのない穏やかな表現の奧に、しみじみとした情愛が籠り、深く爽やかだ。「甲斐の漫々」として、和歌にもいよいよ広海調が確立してきたのだ。
しかし、
「霜月ばかりよりいたく病みて、月はかはれど猶床はなれせぬ枕に、けふなん春は立つと人のいふを聞いて」
一〇四、立春を何に目なれんさしこめて日影もうとき閨の扉に
一〇五、春の来て先づ咲く花は梅の花いまだ咲かずや雪の降るといふ
そして、
一〇六、梅が枝に来つつなれにし友雀羽風もいとへ花のさかりを
で『広海歌集』は終わっている。
文政十三年五月四日。享年五十六歳。早世を惜しまれた師荒木田久老よりもなお三歳も早世だったのだ。
海湧山清白寺に眠る。法名黄楊院大道文雅居士。
それにしても、いよいよこれからというときに、ただただ残念というほかはない。
それにしても、歌人としての広海が、山梨の郷土史に全くといってよいほど登場して来ないのはどういう事であったのだろうか。この覚書を読んでくれているという美知思波の会員の方から「もっと有名な人の歌を取り上げたら」と言われた事があったが、「武田信玄マイナス山梨県イコール零」とも言われているそれなのであろうか。ともあれ、近世までの山梨歌人は武田信玄、柳沢吉保、本居宣長門だけではなかったはずである。
この『広海歌集』覚書は、ひとまず今回で筆を置くことにするが、無名でも優れた歌を詠んだ郷土の先覚の存在を、『広海歌集』は確かに教えてくれた。また、この覚書が縁で、安田道子さんを始め、多くの方から、近世の歌人の短冊や草稿を見せて頂くことができた。その中には、他の方たちにも紹介したいと思うものも沢山あった。また機会があったら美知思波誌上でも発表したい。
一〇七、暁をうしとみし世は昔にて明るく嬉しき鶯の声